むかし、文徳(田村)帝の女御、たかき子という者が亡くなり、山科の安祥寺で法要をした。捧げ物が多くなびき山も動くようだった。
講が終わり、右大将が人々に春の歌と注文した。そこで右馬頭の翁が、目を白黒させて詠む。
山のみな うつりて今日に逢ふことは 春の別れを とふとなるべし
と詠んだが、今見ると別に良くもない。しかしその馬頭の上司は、この歌が一番良いとあはれがったのであった。
~
「右馬頭なりける翁」とは、右大将とかけ中将(業平)。前段の「近衛府にさぶらひける翁」が右。連続する翁は物語でここにしかない。
加えて次段で「むかし、多賀幾子と申す女御…失せ給ひ…みわざ安祥寺」「右大将藤原常行」「右馬頭なりける人」とあるから「翁」は単なる蔑称。
ここで翁とは誰か、とか「馬頭」を無視するのは、前後も全体も全然読んでない。うわべだけ。冒頭及び人物は緻密にかけてかいてある。
「目はたがひながらよみける」は、戸惑う様子。なぜなら歌の実力がないから。それが著者の感想。
なぜあはれがられたかというと、大将にも大して心得はないから(というより、ここは次段(山科の宮)でのいたずらの伏線)。
こうして会うのはお別れ(法要)のため、それでよし。春と別れは関係ないが別に良い。そのレベル(三月のつごもり云々は関係ない)。
歌全体として、表面的に描写したに過ぎない。
「とふとなるべし」とは、そう問われたから歌いましたという無意味な字句稼ぎ。
意味がないことに意味を見出そうとしても、何も出てこない。
導入の、山も動くように見えたとは、著者なりのヒント。俺はこう思ったと。
「春霞 山もなくらむ ちささげに
儚く散るらん 雪の花かな」
う~ん、中々良いでしょ。もち自作ね。
遥か住み、と泣くと無くで泣く泣く、往きと雪をかけ、春と儚く花香で韻を踏む。その心は捧げ物。
このへんにしときましょ。
なお、なぜここにいるように描写しているかというと、女御云々は著者の領域の話だから(縫殿の六歌仙)。
したがって二条の后に近く、詳しい。その匿名性に乗じて乗っ取り、貶めているのが業平。
~
「目はたがひ」は、老眼で山が動いたと見間違った? なんですそれは? そういう翁は危ないから山科まで行かない方がいい。
だからここでの「翁」は蔑称。もちろん在五も。なんでこの段だけしか見ないのか。直前直後の段はどうなる。視野の問題?
何もないのにばか(馬頭)にはしない。人以前のことをしたから(63段・65段)。
前段では、偉そうに二条の后をくさした。その恋愛相手? なわけない。だから「翁」。
というのも、この子達は守るべき子達だから。縫殿は女官人事も担当。だから局の話も出てくる(31段・忘草)。
だからここでは、儀式を執り行う側。列席しているだけの近衛達とは立場が違う。目のつけどころが全然ズレている。
明らかにおかしなことでもそれでいい、意味ないと思えることこそ意味があるという、無意味に倒錯した発想、それが大体○教。
なぜそういうことを言うかというと、ばれると困るから。中身がないのに虚勢を張っていることがばれると困る。
それが業平説とうっすい屏風の話(古今294)。その話にもやはり坊がからんでる(素性。古今293)。しかも二世同士。
しかし引き返すことも難しい。その意味では道は一つしかない。悔い改める。日々自ら不断に省みる。これしかない。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第77段 安祥寺のみわざ | 欠落 | ||
むかし、 | むかし、 | ||
田村の帝と申す帝 | 田むらのみかどゝ申すみかど | ||
おはしましけり。 | おはしましけり。 | ||
その時の女御、多賀幾子と申す | その時の女御、たかきこと申す | ||
みまそかりけり。 | みまそかりけり。 | ||
それ失せ給ひて、安祥寺にて、 | それうせたまひて安祥寺にて、 | ||
みわざしけり。 | みわざしけり。 | ||
人々さゝげもの奉りけり。 | 人々さゝげものたてまつりけり。 | ||
奉りあつめたるもの | たてまつりあつめたる物、 | ||
千捧ばかりあり。 | ちさゝげばかりあり。 | ||
そこばくのさゝげものを | そこばくのさゝげものを | ||
木の枝につけて | 木のえだにつけて、 | ||
堂の前にたてたれば、 | だうのまへにたてたれば、 | ||
山もさらに堂の前に | 山もさらにだうのまへに | ||
うごき出でたるやうに見えける。 | うごきいでたるやうになむ見えける。 | ||
それを、 | それを、 | ||
♂ | 右大将にいまそかりける | 右大将にいまそかりける | |
藤原常行と申すいまそかりて、 | ふぢはらのつねゆきと申すいまそかりて、 | ||
講の終るほどに、 | かうのをはるほどに、 | ||
歌を詠む人々を召しあつめて、 | うたよむ人々をめしあつめて、 | ||
けふのみわざを題にて、 | けふのみわざを題にて、 | ||
春の心ばへある歌を奉らせ給ふ。 | 春の心ばえあるうたゝてまつらせ給。 | ||
(♂) | 右馬頭なりける翁、 | 右のむまのかみなりけるおきな、 | |
目はたがひながらよみける。 | めはたがひながらよみける。 | ||
♪ 140 |
山のみな うつりて今日に逢ふことは |
山のみな うつりてけふにあふことは |
|
春の別れを とふとなるべし |
はるのわかれを とふとなるべし |
||
とよみたるけるを、 | とよみたりけるを、 | ||
いま見ればよくもあらざり。 | いま見ればよくもあらざりけり。 | ||
そのかみはこれやまさりけむ、 | そのかみはこれやまさりけむ、 | ||
あはれがりけり。 | あはれがりけり。 | ||
むかし、田村の帝と申す帝おはしましけり。
その時の女御、多賀幾子と申す、みまそかりけり。
それ失せ給ひて、安祥寺にてみわざしけり。
むかし
田村の帝と申す帝おはしましけり
田村の帝:文徳天皇(827-858≒31歳)。御陵の在所により「田邑(田村)帝」ともいう。
なおこの帝は、69段(狩の使)末尾で、伊勢斎宮の親とされた。そこでは「文徳天皇」。
このように同一人物を違う表現で書き分けている。田村としたのは、死にまつわるから。
「馬頭」の「翁」も同様に意味がある。
その時の女御、多賀幾子(たかきこ)と申す、みまそかりけり
その時の女御(≒めかけ)たかき子という者が、今にも死にそうであった。
みまそかり:みまかり×いまそがり。つまり、今にもみまかりそう。
後述の「右大将にいまそかり」と、明確に書き分けている。
みまそかりの直後「失せたまひ」とあえて書く。
始めから失せたとかけばいいものを、なぜ書く? だから意図して書き分けていると、あえてアピールしている。
つまり前段で、藤原高子と書かず「二条の后のまだ春宮」としたのは、藤原の氏神に行ったのではない、伊勢の話という暗示でもある。
それに、著者に近い人物の名は出さない(有常は例外)。よって、当然在五は著者と違う。
みまかる 【身罷る】
:死ぬ。
いまそがり 【在そがり】
:いらっしゃる。
それ失せ給ひて安祥寺にてみわざしけり
その人が亡くなられ、安祥寺で法要をした。
安祥寺:山科にある山寺。だから山にかけた内容。
わざ :ここでは仏事。法要。
人々さゝげもの奉りけり。
奉りあつめたるもの千棒ばかりあり。
そこばくのさゝげものを木の枝につけて堂の前にたてたれば、
山もさらに堂の前にうごき出でたるやうに見えける。
人々さゝげもの奉りけり
人々が捧げ物を奉った。
奉りあつめたるもの千捧(ちさゝげ)ばかりあり
それを集めた物が千ばかりあった。
千捧:千の捧げ物。ちささげ。ちいさげに掛けている。
何なのかは不明。ヒラヒラしたものだろう。
説明がないということは、ブツ自体に意味はない。
そこばくのさゝげものを木の枝につけて
そこらへんの捧げ物を木の枝につけて
そこばく 【若干・幾許/許多×】
:千とかけて若干。
山にかけて沢山とみるのもいいが、そうではなく、ちささげとあわせ皮肉。
竹取の「そこらのこがね」と全く同様。
堂の前にたてたれば
寺の本堂の前に立てると
山もさらに堂の前にうごき出でたるやうに見えける
山科の山も、堂の前に動いて見えるかのようであった。
つまり大袈裟という皮肉。物理的な大きさは関係ない。
そしてこれは著者の親切なフリ。
前段の近衛の翁の歌で、小塩の山で辛いという発想を、この情景にかけないの? という意味。
例えば、「遥か住み(春霞) 山もなく(泣く)らむ ちささげの」 などとそんな感じで。
裏返せば、前段の歌にそういう例えの意図はない。
それを、右大将にいまそかりける藤原常行と申すいまそかりて、
講の終るほどに、歌を詠む人々を召しあつめて、
けふのみわざを題にて、春の心ばへある歌を奉らせ給ふ。
それを
右大将にいまそかりける
右大将にあらせられる
右大将:記録によると右近衛大将。
藤原常行と申すいまそかりて
常行というのがいて
講の終るほどに
坊の講釈が終わるほどに
歌を詠む人々を召しあつめて
歌を詠める人々を集めて
けふのみわざを題にて
今日の法要の講義を題に
春の心ばへある歌を奉らせ給ふ
春の心栄えある歌を、奉ってくれたまえという。
右馬頭なりける翁、目はたがひながらよみける。
山のみな うつりて今日に逢ふことは
春の別れを とふとなるべし
とよみたるけるを、いま見ればよくもあらざり。
右馬頭なりける翁
そこで、馬頭なりける翁が、
馬頭なりける翁:一般に問題なく業平と解される。
前段の「近衛府にさぶらひける翁」とかけ、大将と中将(63段)を対比。
目はたがひながらよみける
目を白黒させながら詠む。
白黒はこういう時の色なので補う。突然の上司のフリに動揺している表現。竹取でいう「こなたかなたの目」。
目を白黒させる
:せわしなく目玉を動かす。 驚くさま。 また、物がのどにつかえたりして、苦しむさま。
老眼で捧げ物を山と見間違えた →本気? じゃないよね。
その時点で馬頭の頭がおかしいことの証だし、そういう認知では行動も危うい。
しかしそういう例え・皮肉を、なぜいつも額面通りに見るのか。歌のネタだって。頭かたすぎる。
山のみな うつりて今日に 逢ふことは
春の別れを とふとなるべし
「春の別れ」とは、春の心栄えと問われたお題と、人が亡くなったことにかけただけの、見て・聞いたまんまの内容。
三月つごもり云々は関係ない。
山をあれこれ論じても意味はない。だから伊勢の著者的に内容は良くない、つまり大して意味はないと言っているだろう。
だから捧げ物をさらしたら、大幣のようにサワサワしている木のようだ、それだけ。山がうつったようだって、小学生か。
仏教的な釈が好きなら知らんけど、伊勢はそういうのと関係ない。神の領域の話なので。
みわざも、本来寺のものではない。だから忌み事の領域。
とよみたるけるを
と詠んだのを
いま見ればよくもあらざり
今見れば全然良くもないが
そのかみはこれやまさりけむ、あはれがりけり。
そのかみは、これやまさりけむ
その上司は、これが優れているなと
あはれがりけり
あはれがったのであった。
普通の感覚なら「春の別れ」で単純に葬式にかけて言っているということで、お~いいんじゃないの、それであはれがっている。
しかしよく見ると普通なら、別に良くはないよなと。そういうトンチ。