伊勢物語 16段:紀有常 あらすじ・原文・現代語訳

第15段
しのぶ山
伊勢物語
第一部
第16段
紀有常
第17段
年にまれなる

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 

 前段:世の常と有常 人がら 妻尼になり
 

 後段:友だちのもと 夜のもの 天の羽衣
 
 

あらすじ

 
 
 この段は、有常の妻が、尼になると姉の所に家出し、その話をタネに何回寝たか、片手で足りたなどと言い合ったネタ話。
 この妻は藤原右大臣の娘。妻の姉は、まず嵯峨天皇の妻。つまり姉並みの、並みの貴族並の生活がしたくて、出て行った。
 もう一人の姉妹が41段で出てくるが、こちらは服を洗って破いてしまうなど徹底的に貧しく描かれる。だからそういう予感は大嫌い。
 
 ~
 

 紀の有常は、人柄は心が美しく繊細な人だった。たとえ貧しくても心は豊かな人だった。
 

 さて、彼にはそこそこの年(「としごろ」)あいなれた(※曖昧にさせた表現。馴れ合い=なあなあの)妻がいたが、近年は床を共にもしなかった。
 そんなある時、その妻が突如「尼になって、姉がいる所に出て行く」と言い出した。
 特に仲睦まじいこともなかったので、あらあら何とも「いとあはれ」=哀れなことと思いつつ、彼は貧しいから(?)何もしてやれないのであった。
 

 (つまり、貧しいとは、彼女は専ら金にがめつくて出て行った間接表現。冒頭の心美しいと対比させた心の貧しさを暗示している。
 言い換えると、何も生活に困っていないのに、世の常(=他の普通の貴族)のように、派手にできないから出て行ったという意味。
 だから尼になるなどと派手なことを言い出したが、結局姉の所にいくだけ。寺は「他人の」「金に困らん」所を暗示している。金金きらきらの所。
 だから「世の常」とは、自分達のことしか考えない貴族社会を揶揄した皮肉。それは後述の天の羽衣=竹取の話でも示される通り。)
 

 そこで、有常が(その浅はかさを)思い嘆き、妻よりむしろ懇ろに語り合う仲だった友達(同じ感覚・つまり貴族でない人・つまり業平ではない・著者)に、
 「ウチは貧乏なんでな~んもする(できる)ことないみたい」と連絡してきた(つまり妻にそう言われたという自虐ネタ)。そこには歌が添えられていた。
 「指折ならぬ手折り(トコでシたコト)の数を数えれば、十もあるかと思いきや、四つほど(片手でコト足りた)」と。床(トコ)と十(トウ)とかけて。
 この心は、つまり寝たことが少ないというネタ。笑えんなあというものである。妻に逃げられても笑いにかえることが、心の余裕である。
 しかるに、このトウとかけ「さすが」にかけた馬具=武蔵鐙の男が、京女に尻にしかれ・妻先で足蹴にされた13段の話は、有常の有様を暗示していた。
 

 かの友達がこれを聞いて、それは「いとあはれ」と。その心は、ヤってないけどよくやった(我慢した)。
 つまり冒頭の「いとあはれ」と明確に符合させ、あはれ=哀れ=可哀想と、対象のみじめさを言っていると確実に表している。
 しかしその惨めさを、男友達なりに励まし、気持ちを慰めるべく、男らしく自分で慰められるように「夜のもの」(夜のネタ)を送った(片手とカケ)。
 友達のお見舞いに、そういうわらかす物を送るのは、気心しれた親友の流儀である。
 (これを、尼になって出奔した人に送る夜具=派手な寝巻きとみて、しかも嬉しくて涙するなどとするのは、全く脈絡ない上に、若干怖い。よって誤り)
 

 そして「夜のもの」に、歌も添えて詠んだ。
 年だにも 十とて四つは経にけるを いくたび君を 頼み来ぬらむ
 「年といっても、トシとかけ、十のうち四は経てきた中で、どれだけ君を頼んできたのかね」と。現金だねと。
 (これを普通は四十年と解するが、「年だにも十とて四つは経にけるを」を四十と解するのは、思い込み以外根拠がない。文脈がバラバラ。
 睦まじくない・懇ろ・手折(と指折)などの書き分けを、全部読み流しておいて、四十としても疑わしいとしか思えない。実際どうかはともかく。
 記述・文面を軽視しすぎている。)
 

 そうしたら、有常から返事がきて
 「この送ってきた、尼の…じゃなかった天の羽衣というやつは、なかなかだね、みたところ君の衣(もの)ですか?」というので、
 喜びに堪えられず(?)、 
 秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける(??)
 

 「飽きがくる と露も思わず(とかけ) あるのは涙(と解く。露=涙) その心は、そう、お古です(当たったのに残念とはこれいかに)」
 →飽きがくるといけんので、送りました。露(涙)知れずとかけ、誰にもわからんとおもったけど、そうよ私の。お古だけどみてね」
 私のお古(?)をあてがわれるという踏んだり蹴ったり。まさに武蔵鐙。いやこの意味は冗談ですけど。
 こういうさしこまれた、ちょっとした笑い(ウイット)を全部真面目にしかみないからおかしくなる。だから竹取でも記述が矛盾だなんだ言ったりする。
 

 尼の羽衣にかかるからと、尼になった友人の妻のための寝巻と解するのは意味不明。尼になるなら、普通に考えて戻ってこない。
 何より完全におかしな表現なのに、有常が喜んで涙すると見るのも無理。むしろ若干狂気を感じる。
 涙と露というのは、ここでは文字通りの意味ではない。歌におけるシンボル・象徴的アイテムとしてみなければならない。そうでないと意味が通らないから。
 意味が通るよう、その言葉の枠内で(あくまで言葉に忠実に)見方を変えて見ることが解釈。そういうことがわからん人達がいるというのが、六段の話。
 

 ここでの「天の羽衣」というのは、竹取物語のこと。それを象徴させた言葉。直接出さないのはそれが匿名の趣旨だから(貴族でもない立場の危うさ)。
 「涙がふる」とは、袖ふるとかけ(涙はふるものではない)、古いを導き、古い素材(万葉)を用いて作ったということを言っている(詳しくは後述)。
 「君が御衣と」聞かれているのは、君の作品かということ。それで「よろこびに堪へで」とは、わかってくれて嬉しいということ。
 つまり伊勢と竹取の著者は同一で、服に関係する人物。つまり「ふくからに」の人で、縫殿の六歌仙。だからこのような服の話が何度も出てくる。
 ここでの文脈におきかえてみると、ふくからにというのは、自分は吹けば飛ぶ程度というような揶揄・自虐としても見れる。
 

 以上より、業平はこの物語の「むかし、男」ではない。
 82段の渚の院は、有常とずれた頭の業平(「馬頭」)が、歌でバトルした(ばかやった)話。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第16段 紀有常
   
 むかし、紀有常といふ人ありけり。  むかし、きのありつねといふ人ありけり。  むかし。きのありつねといふ人有けり。
  三代の帝に仕うまつりて みよのみかどにつかうまつりて、 みよのみかどにつかへて。
  時にあひけれど、 時にあひけれど、 ときにあひたりけれど。
  のちは世かはり時うつりにければ、 のちは世かはり、時うつりにければ、 のちには世かはり時うつりにければ。
  世の常の人のごともあらず。 世のつねの人のごともあらず、 よのつね時うしなへる人になりにけり。
 
  人がらは心うつくしく、 人がらは、心うつくしう 人がらは 心うつくしう。
  あてはかなることを好みて、 あてはかなることをこのみて、 あてなることをこのみて。
  こと人にもにず。 ことに人にもにず、 こと人にもにず。
  貧しくへても、
なほ昔よかりし時の心ながら、
まづしくへても、
猶昔よかりし時の心ながら、
よのわたらひ心もなくまづしくて。
猶むかしよかりし時の心ながら。
ありわたりけるに。
  世の常のこともしらず。 世のつねのこともしらず。 よのつねのこともしらず。
 
   としごろあひなれたる妻、  としごろあひなれたるめ、  としごろありなれたる女も。
  やうやうとこ離れて、 やうやうとこはなれて、 やう〳〵とこはなれて。
  つひに尼になりて、 つゐにあまになりて、 つゐにあまになりて。
  姉のさきだちて あねのさきだちて あねのさきだちて
  なりたるところへ行くを、 なりたるところへゆくを、 あまになりにけるがもとへゆく。
  男、 おとこ、 おとこ。
  まことにむつまじきことこそなかりけれ、 まことにむつまじき事こそなかりけれ、 まことにむつまじき事こそなかりけれ。
  いまはとゆくを いまはとゆくを、 いまはとてゆくを。
  いとあはれと思ひけれど、 いとあはれと思けれど、 いと哀とはおもひけれど。
  貧しければ、するわざもなかりけり。 まづしければするわざもなかりけり。 まづしければ。するわざもなかりけり。
 
   思ひわびて、  おもひわびて、  思ひわびて。
  ねむごろに ねむごろに ねんごろに
  あひ語らひける友だちのもとに、 あひかたらひけるともだちのもとに、 かたらひけるともだちに。
  かうかう今はとてまかるを、 かうかういまはとてまかるを、 かう〳〵今はとてまかるを。
  何事もいさゝかなることもえせで、 なにごともいさゝかなることもえせで、 何事もいさゝかの事もせで。
  つかはすことと書きて、おくに、 つかはすことゝかきて、おくに、 つかはすこととかきて。おくに。
 

24
 手を折りて
 あひ見しことを数ふれば
 手をゝりて
 あひ見しことをかぞふれば
 手を折て
 へにける年を數ふれは
  十といひつゝ
  四つはへにけり
  とおといひつゝ
  よつはへにけり
  十と言つゝ
  よつはへにけり
 
   かの友だちこれを見て、  かのともだちこれを見て、  このともだちこれを見て。
  いとあはれと思ひて、 いとあはれとおもひて、 いとあはれとおもひて。
  夜のものまでおくりてよめる。 よるのものまでをくりてよめる。 女のさうぞくを一具をくるとて。
 

25
 年だにも
 十とて四つは経にけるを
 年だにも
 とおとてよるはへにけるを
 年たにも
 とをとてよつをへにけるを
  いくたび君を
  頼み来ぬらむ
  いくたびきみを
  たのみきぬらむ
  幾度君を
  賴みつきらん
 
  かくいひやりたりければ、 かくいひやりたりければ、 かくいひたりければ。よろこびにそゑて。
 

26
 これやこの
 天の羽衣むべしこそ
 これやこの
 あまのは衣むべしこそ
 これやこの
 あまの羽衣むへしこそ
  君が御衣と
  奉りけれ
  きみがみけしと
  たてまつりけれ
  君かみけしに
  奉りけれ
 
  よろこびに堪へで、又、 よろこびにたへで、又、 よろこびにたへかねて又。
 

27
 秋や来る
 露やまがふと思ふまで
 秋やくる
 つゆやまがふとおもふまで
 秋やくる
 露やまかふと思ふまて
  あるは涙の
  降るにぞありける
  あるはなみだの
  ふるにぞありける
  あるは淚の
  ふるにそ有ける
   

現代語訳

 
 

世の常と有常

 

むかし、紀有常といふ人ありけり。
三代の帝に仕うまつりて時にあひけれど、
のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。

 
 
むかし、紀有常といふ人ありけり。
 むかし、紀有常という人がいた。
 

三代の帝に仕うまつりて
 三代の帝に仕えて、
 

時にあひけれど、
 時に(男と)一緒に仕事をしたけれど
 

 (あひ:ともに・一緒に・互いに)
 

のちは世かはり時うつりにければ、
 後に世が移り変わってしまったので、
 

世の常の人のごともあらず
 世の常の人のようにもならなかった(?)
→有常というのに無常にも、普通の人のようにはならなかった。
 
 つまり、この最初の文章で結論・概要を示している。
 これは10段で見られるように、物語の一つの特徴。
 
 なお、有常と無常をかけているのはギャグと同時に、当り前のかかり。当り前の基本・対比の実践。
 だから「世の常の人」も「世の常のこと」とセットで配置している。
 
 

人がら

 

人がらは心うつくしく、あてはかなることを好みて、こと人にもにず。
貧しくへても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のこともしらず。

 
 
人がらは心うつくしく、
 
 

あてはかなることを好みて、
 貴く儚い、つまり繊細なことを好んで
 

 あてはかなる:あてなる+はかなし(造語)。
 この当て方が、あてはかなさの実践。
 

こと人にもにず。
 その行い・言葉・評判は人にも似ない。
 (つまり特別だった)
 

貧しくへても、
 貧しくして時を経ても
 (省略形)
 

なほ昔よかりし時の心ながら、
 なお昔からの、良かった時の(豊かな)心をもち続けながら(心は貧しくならず)
 
 (よかりし:より+よかりし、の一体形)
 

世の常のこともしらず。
 世の常の(賤しいことも)知らなかったし(心に入れなかったし)、しなかった。
 
 世間のように(つつましく)暮らさないという訳→× 
 つまり贅沢ということだが、心美しいという説明と相容れない。
 
 

妻尼になり

 

としごろあひなれたる妻、やうやうとこ離れて、つひに尼になりて、
姉のさきだちてなりたるところへ行くを、
男、まことにむつまじきことこそなかりけれ、
いまはとゆくをいとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。

 
としごろあひなれたる妻、
 長年つれそった妻が、
 

やうやうとこ離れて、
 色々あって床を離れて(一緒に寝ないようになって)
 (つまり仲は良くない。
 後述のように、慣れ<睦まじい・懇ろと区別している。)
 

つひに尼になりて、
 遂に尼にまでなってしまって、
 

姉のさきだちて
 姉が先に行っていた
 

なりたるところへ行くを、
 トコを頼って行ってしまったのを
 

男まことにむつまじきことこそなかりけれ、
 男は特に仲睦まじいということこそなかったが、
 

いまはとゆくを
 今行こうとするのをみて、
 

いとあはれと思ひけれど、
 なんて哀れな(あれあれ、嘆かわしい)と思ったが、
 
 名残惜しい・愛しい系の訳→× 直前で睦まじくないとしているのに意味不明。
 「あはれ」の意味を根本的にはきちがえている。これは本来「いけず」の言葉。ずいぶんおきれいですな~というのと同じ。
 それをしらん人達が真に受けて、変な定義になった。後世はその解釈をうけてそうしているのもあるかもしれんけど、伊勢では違う。普通に哀れの意味。
 でないと通らんでしょう。
 

貧しければ、するわざもなかりけり。
 貧しかったので、なすすべもなかった
 (つまり金のなさが原因で、出て行った。だからこう書いている。金じゃないなら出ていかない)。
 
 

友だちのもと

 

思ひわびて、ねむごろにあひ語らひける友だちのもとに、
かうかう今はとてまかるを、何事もいさゝかなることもえせで、つかはすことと書きて、おくに、
 
手を折りて あひ見しことを 数ふれば
 十といひつゝ 四つはへにけり

 
思ひわびて、
 有常がこうした妻の心意気を嘆いて、
 

ねむごろにあひ語らひける友だちのもとに、
 とても仲良く話しあう間柄の友達のもとに、
(つまり馴れ合っていた妻より格段に仲がいい友達。
 つまり「むかし、男」)
 

かうかう今はとてまかるを、
 かくかくしかじかで、今はもういないけど
 

何事もいさゝかなることもえせで、
 何事もちっとも(金がなくて)できないので、
 (つまり、これが「かうかう」の意味するところ。それを揶揄したネタ)
 

つかはすことと書きて、おくに、
 こうして暇つぶしに文を使わしたと書き置いて、(最後に)
 
 

手を折りて
 指折りではなく手折の数を、指折り数えたらば、

 手折(たおる):女性をものにすること。
 

あひ見しことを数ふれば
 つまり「床てしてみたコト」を数えれば
 

十といひつゝ
 十と言いたいところだが、
 

四つはへにけり
 四つほどだった。(片手でコト足りたわw だって書いてあるもの)
 
 四つ+は+経にけり(超えた)→「四回もよーいった、ヨくシたわ」
 
 

夜のもの

 

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜のものまでおくりてよめる。
 
 年だにも
 十とて四つは経にけるを
  いくたび君を
  頼み来ぬらむ

 
 
かの友だちこれを見て、
 かの友達、これを見て
 

いとあはれと思ひて、
 なんて哀れなと思い、
 

夜のものまでおくりてよめる。
 夜に役立つものを贈って詠んだ。
 
 夜のもの:夜のネタ。
 ここでは、片手でこと足りたとかけている。
 
 自分が慰めるかわりに、自分で慰めてもらう。
 お見舞いに変なものを送るのは、親しい友達の流儀。
 
 これを普通は、尼のための夜具(寝巻き)として、天の羽衣という寝巻きを尼になるといって消えた女に送ったとみる。完全に意味不明。
 おもちゃも意味不明だけど、尼の寝巻きより100倍マシ。
 

年だにも 十とて四つは 経にけるを
 年でいっても、十のうち四(年)は一緒にいただろうに。
 (ト+シとかけ。こういう表現には全て意味がある。)
 
 四十年という解釈が一般のようだが、文面及び、全体の文脈からそう見れる根拠は薄い。
 一般的な訳の仕方では、確かに60歳前後の内容かもしれないが。全体に解釈が場当たり的すぎる。
 そこしか見ないから、整合性がとれない。
 
 というより、おそらくほぼ全員が「解釈」という考え方になじみがない・知らないのだと思う。
 物事に一つ二つの意味しか認められない発想(しかも極めて単純)。自分達の発想で、自分がこう思うからと、相手(著者)も同じと思いこむ。
 相互の連結を見ないから、それを総合させても、ただただトンチンカン・滅裂になるだけ。
 

いくたび君を 頼み来ぬらむ
 その中でどんだけ 君のことを頼ってきたのかねえ

 

天の羽衣

 

かくいひやりたりければ、
 
 これやこの 天の羽衣むべしこそ
  君が御衣と 奉りけれ
 
よろこびに堪へで、又、
 
 秋や来る 露やまがふと思ふまで
  あるは涙の 降るにぞありける

 
かくいひやりたりければ、
 このように送ってやれば、
 
 

これやこの
 これこれ、
 

天の羽衣
 尼の、じゃなかった天の羽衣
 (もちろん揶揄している)
 

むべしこそ
 いいねコレ
 
 むべ(宜):よろしい
 

君が御衣と
 これ君のものと
 

奉りけれ
 うかがいましたが
 

よろこびに堪へで、又、
 これをみて喜びにたえず、またこちらも歌をばと
 

秋や来る 露やまがふと 思ふまで
 飽きがくる、と露も思わず(とかけて)
 

あるは涙の
 あるのは涙(と解く。露=涙)
 

降るにぞありける
 その心は、お古だけどね
 
 つまり「天の羽衣」とは、秋の読書のため、男が有常に送った竹取物語のこと。
 そしたら、君が書いたんでしょうと。それで嬉しくなって、お古を素材にしているけどねと(万葉集16/3791 -3808)。
 
 表面的には、天の羽衣がお古(他人のつかい古しをあてがった)とかかっているが、こちらの暗示が本来。
 そして、このように気づいてくれたのが、あてはかなる(繊細さ)などと褒めている一つの理由。