いろは歌。
10世紀頃の成立、作者不明とされる歌。
後述の認定から、850~885年頃の成立。
目次
・作者(文屋)
・解釈(伊勢24段・梓弓参照)
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
五七五ではなく七五調。
漢詩の流れを受けている。
しかし和歌調で柔らかい。
つまり歌に精通している。男。
文屋。
他の候補はない。
この歌が和歌史上最高傑作なら、最高の(色恋)和歌を沢山残した者が残した。それが順当な見立て。
普通レベルの歌人では詠みようがなく、最高の知性をもった天才でないと無理、かつ、みやびの極みなのは素人目にも明らか。
それなのにあれもこれもと色んな人を並べ立てられる時点でナンセンス。いろはほどの歌はあれこれないのにもかかわらず。
柿本人麻呂とみるのは良い線(センス)。実力も実にそれ相応。時代は違うが。
しかし内実は同じである。中身は同じ人。だから人麻呂の別称・人丸に掛けた猿丸・蝉丸等がいる。丸は伏字。人○。
これらが実名ということはない。それが定家の選定の趣旨。でなければ身元不詳者を先頭行に並べない。つまり実態は絶対の実力者。匿名の。
そして人麻呂も偽名である。兄が猿など悪い冗談というか、卑しい出自の自虐でしかない。これは猿という語が特別な含みをもつこと位、当然のこと。
人麻呂の本名は、同じく身分不詳の卑官なのに古事記を記した安万侶。万侶=人麻呂(形)。稗田阿礼も卑しさを表わした自虐分身。アレは代名詞。
でないと単独勅命を拝し歌物語の神話を記した説明ができない。人から受けた教育で突出したわけではない。孔子と同じ。器が違う。だから神。
安万侶の没年が723で、人麻呂の没年が724。安万侶が消えた翌年以降、作品を出さなくなった人麻呂の活動停止が一般に認知された。論証完了。
この前の名(安万侶)と文屋の名前。
この両者は、ほぼ全く同じ境遇にあり、かつ同等の客観的実力(名称と称号と根拠)を持っているので、確実に中身が同じと言えるのである。
古事記には千字文という、いろは同様の歌の存在が記され、いろははその精神を継承している。
伊勢は古事記の用語用法を継承している。東下りの東を吾妻とかけること、及び天の逆手(9段、96段)。
誰にも解読されていない言葉の理解レベルを、どこかのボンが残したと見るのはありえない。だから解釈も頓珍漢。
例えば、学者や書家が、史上最高の和歌を詠めたりするだろうか? ここまでの縛りで、千年以上も人々の心に残り続ける歌なのに。
そう詠めると言える人はまず自分で和歌を詠んだことはないし、詠んでも大したものでない。
なぜならスペシャリティへのリスペクトがないから。その可能性を全く考慮しないことがその証拠。そちらですんなり説明できるのにもかかわらず。
しかし貫之の古今の序および本体の配置と詞書からも、人麻呂同等の扱いをされた文屋(※)の名が出されないのには、源氏の記述を参考にすれば訳がある。
※文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平は恋三で敏行により連続を崩す。かつ唯一二条の后の完全オリジナルの詞書を二つももつ。
そんな六位風情の末席の卑官が、帝周辺に取立てられたことが、当時の男社会で全く受け入れられなかった。
つまり女帝(元明天皇)と結託した人麻呂(安万侶)が、根本的な朝廷批判(女を利用し汚す・暴力・収奪)を書きまくった古事記で男社会が懲りた。
いくら圧倒的でも、帝を何とも思わないような不遜な奴(例えば竹取の記述)に神のような称号など認められない。自分達のおかしさが際立ってしまう。
それで人格的に難がある淫奔の業平の話とレッテルを貼られ、それで今に至るまで伊勢は脊髄反射的に業平業平と言われ、文屋の作品はけなされている。
それが源氏冒頭の桐壺の境遇。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ」
桐壺は源氏の生みの親、圧倒的才覚の源氏の出自。だから「すぐれて」。
女達に囲まれ、身分は低いが時めいて(女達はみなその歌を認め、よって帝に重用され=後宮で近かった)、男達にねたまれ貶められ死んだ。
それが縫殿の文屋。
それが伊勢最終段、まさか今日明日で死にそうになるとは思わなかった!という実に間抜けた内容で、さすが業平あっぱれという、ずれまくった評にも出る。
(人は死にそうになっても今日明日とは思わないものだな(それならずっと生きていられる)というのが本来)
桐は文屋に当てていることが、何も問題ない唯一の嫡出の夕霧を朝康にかけていることから証明される(霧=桐:霧=康)。
朝夕は源氏で確実にセットにされる言葉(朝顔・夕顔)。
この歌は伊勢24段(梓弓)の内容を受けた歌。
その概要はこうである。
筒井筒で幼馴染と契り交わした田舎の夫婦、嫁の親がなくなり(生活が困難になり)、別れを惜しんで、男が宮仕えに出た。
三年たつと離婚事由(失踪)になるのでギリギリ家に戻ると、家には入れられないという。枕を新しいのに変えるといわれた(婚約してたら今夜きた)。
男は衝撃を受けながら、三年も置いておいた女の寂しさを思い(それだけ愛し合っていた)、俺は待っているからと仄めかし、引き下がるしかなかった。
そうしたら女が後日男を追いかけてきて、道中(清水)で果てた。女にとってはどっちにせよ、信義を損なってしまった(しまう)からである。
女が他の男と婚約したのは、もう会えない(戻らない)と思ったからだが、男が俺は待ってるというのも、女にとっては当てつけだったのかもしれないな。
しかし男にとっては当てつけである。女が君以外いないと言って契り交わした幼馴染。三年で帰ってこなくなると思われるとは思わなかった。
最期の「いたずらになり」は、バカなことをして(無駄死に)という意味。念のため言うと、バカにしたのでも呆れたのでもない。
例えば恋愛漫画での「ほんとバカだな」と同じ用法の愛情表現。その高等表現。こういう関係が筒井筒の二人の関係性。
なぜ著者はこんな事を知っているか。著者の話だから。
判事で縫殿の文屋。だから法律の話にからめている。これは伊勢全体に通じていること。だから源氏でも「伊勢の海(ほど)の深き心」とされている。
それをどこかの貴族の夢想話と見るのはあまりに酷い。田舎の男女をここまで語る動機がないし、業平など入る余地もない。全く読めないからそう見れる。
しかし一部はこの男、筒井の田舎わたりの男、つまり梓弓で宮仕えに出た男を、業平と見るのである。伊勢にあるというだけで。ひどすぎる。
しかし筒井筒は千年残った幼馴染との恋物語。簡単には終わらない。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
いろはにほへどちりぬるを
、色が散ったから、恋が散った歌。
色は恋。淡い恋心。その省略。それが王道の掛かり。
紫は濃い恋心にしたけども、それが源氏での強い表現。だから紫は基本濃口。しょーゆーこと。
一応、紫は醤油の暗語。こういうことも一々説明しないと業平が主人公とかにされてしまう。
色好みとかいうのは外道(衆生⇔王道)。
色即是空とかは論外。論外なので論じません。色は空・空は色という空虚な空念仏(循環論法)。やべ論じてもうた。
しかし論外も論じないと、書いていないからやっていいと解釈する。この世の恐ろしさ。
「ほへと」ではなく、にほへと=匂へど。逆接。
ちりぬる
は散ってしまった(花の暗示)。「にほへど」も花。花は女性の象徴(Frau and fragrance)。
ここで貫之の905年成立の古今仮名序の六歌仙評を参照しよう。
業平評「しぼめるはなのいろなくて①にほひのこれるがごとし」。
文屋評「②ことばゝたくみにてそのさまみ①におはず」。
まず、いろはを意識していることは当然(これが10世紀頃という根拠か)。じゃあ業平の歌!? と反射的に思うのは凡人。
「しぼめるはな」は、良いように解釈しようがない。いろはの散った花と対比させ見苦しい。業平否定の意味。散るのが良いという意味ではない。
業平評前段(そのこゝろあまりて②ことばたらず)は一般の伊勢評を受けた内容。一般に業平の歌と勝手にみなされ、かつ業平にはそれしかない。
しかし貫之は一般の業平認定を古今本体の配置で断固否定しているから(※)、これは文屋のまがいものという暗示。つまり業平による伊勢の乗っとり。
(※文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平は恋三で敏行により連続を崩す。この選定で無関係というのは無理というか無知)
文屋評は一般にその言葉が大袈裟で身に負わないなどとされるが、そんなのは歌仙評全体の上下の掛かりからありえない。匂わせないという意味。真逆。
つまり現状の解釈はありえないレベルである。
貫之のひっかけに乗った。すぐ前後の掛かりもわからない人々をあぶりだす問題。
全体前後の掛かりで根拠をもたせるのが上位の解釈法。
だから貫之が「いろなくてにほひのこれる」というのは、「いろはにほへとちりぬる(を)」に掛けていることは絶対確実な、絶対のリスペクト。
多少ずらして露骨にしない、相手の知性によらせることが嗜みである。そしたらずっと誰もわからなかった。全力で勘違いしてわかったことにしてしまう。
貫之の評解釈レベルがこうであるから、いわんや貫之と紫が絶賛する伊勢の一般の読解レベルは。筋も通せずお話にならない。
いわんやというのに言うのは、一々言わないと認められない(無視して捻じ曲げる)からである。
それは掛かりによる暗示を全く読めないからである。在五は字面自体蔑称。記述からも主人公ではありえない、それを強弁し続けられるセンス(のなさ)。
うゐのおくやま
は、憂いの奥山。
これを(可)愛いうちのおくさんと掛ける。奥山は文脈によるが、ここでは(清水の)東山。
けふ
は今日を京とも掛け、
こえて
で、追い越して逝ってしまった。すれ違ってしまった。気持ちが。
あさきゆめみし
は、浅き夢見し。束の間の夢。
それは二人の生活のこと。夢は現では続かなかった。刹那で切ない夢物語。
ゑひもせず
は、会ひもせず。
朝来で宵で酔いとかけ、儚い人の夢と解く。
その心は、世を儚み、あの子の夢をやみゆとして、酒など飲んでも酔いもしないし、会えもしない。
よって敢え無し。
酔いとくれば酒。それが大人の解釈。
つまり酔わない酒を嗜むのが大人で、酒に飲まれ騒ぐのが子ども。強いフリも子ども、違った?
この世に酔う? 有為?
ほほォ~中々の酔いっぷりですなあ~。この世に酔うとは酔狂だ。
ほめてないよ。いろはは歌だ。念仏とは違う。いろはは音階というのもイロハなんで。そこんとこヨロシクな。
有為じゃない。それは一体どこ用語なの。
この言葉は何をされている方なの? あっこにおまかせしていい? 歌合戦の心得あるらしいし、シメれるらしいし。え、そのシメると違う?
鐘いくつならせばいい? なに108? それカネ違いや! え、あの鐘ってその鐘だった? やっぱあっこにまかすしかないじゃん。ギャラは鐘でいい?
鐘を一番綺麗にならすのでいい? それがみやびよね。
うゐは憂い、浮世は憂き世。それを包んでる。
掛かりもみやびも全く頭にない。だから好き勝手言える。有為? 全てに原因? 当り前すぎる。空気に色はない位、当り前。それを言わずもがなという。
まあ門外だもの。しょうがない。門前よりはいいでしょう。あ、聖典の言葉の意味習ってなかった? 自分達で決めた意味不明な意味じゃなくて。
しかし、言葉の解釈(理解)に門外とかあるのか。それは知性と理性と教養、人間性の問題である。しかし掲げるのが唯我独尊ならしょうがない。
人間道ってなんだ。人道だ。人道がわからないのが人でなし。延々物金欲し騒ぎ回る餓鬼。収奪する修羅。言葉をもてあそぶ畜生。それらが蔓延る地獄。
わかよたれそ つねならむ
≒ああ無常(ミゼラブル)。
そんなんばかりが、この世の常か。
そんなん書いても誰もわからんわ(倒置)。
誰もわからんのに、なぜ残しているか。いや残して何が悪いの。記念だよ記念。自分用の記録だよ。それに自分で垂れ回った訳ではない。
歌の出来栄えもあり、伊勢で確立させた後宮メインの流布ルート(女達の手習)で使用した。縫殿は女官人事(生活の世話)を担当。
だからいろはが手習という伝統がある。でないとこの史上最高の超一流の超絶技巧作品が、基本を意味する手習になどされる理由がない。
手本として千年残り続けたのは、究極の出来だからで流布させたからではない。究極の出来だから自然に流布した。だから布教というのはその程度。
ああ無常で仏用語? あ、仏国の話? それ違う仏や! いやもう仏仏、なんなんだよ。
ならむだよならむ。含みがあるの。ないじゃねーよ。ならむだよ。
ならむ大仏じゃねーよ。筒井は大和だけど大仏かんけーねーよ。大仏が後なの。古の都が先なの。普遍の古語を業界用語と吹いて占奪すなよ。
仏は人がいないと行かない。神は前人未踏を行く。違いは何か。考えられるか。人をはべらせねそべる極楽の悟りを語り、全身金色カネとってゴーン。
ひどいでしょ? だからそういう口先の詭弁は不毛なんだって。それがどんな救いをもたらしたの。一切皆苦といいつつ識別すなと正当化。無理でしょ。
これは古からの恋物語。その投影である。
梓弓はラクシュミー。友人の有常はアルジュナ。だから男はハーレムで女達の世話をしていたけど、妻は彼女だけ。だから古代は神代。
でなければ無名の田舎の男女の歌が歴史に残ることなどない。現代で考えてほしい。ありえない。だから貴族王族の作にしたがるが、それはもっとない。
古来無名の神の詩歌を利用して、有為とかで上書きし、私が説き明かした(解いた)と意味不明に独尊・占奪してくる、ヴェーダ時代からの常套手段。
説明したと言うが筋を通せず、通せないのは相手のせい。
凡人が伊勢をはかりきれないというのとは、似ているようで天地の差がある(反転形)。
人々をひきつけるのは、その言葉が聖典に基づいているからであり、観念的で意味不明でドグマ的で強迫的なのは、正統=再来の言葉ではないからである。
他人が本人の事情を読むのは無理。情報は誰でも見れるが、パズルを総合するのが無理。キーワードがパスワード。わからなければ意味不明。
近ければ程度に応じて読める。古代インドまで遡れる人は神話を語れる。しかしそれは原初ではない。
梓弓と文屋を合わせ、子の朝康(archer)。
弓矢はセットで「引けど引かねど昔より」。その「心は(ふりにしより)君に寄りにしものを」。
アーチャーの名づけ親、アルケー(始源)。これが源氏でいう「出で来はじめの祖」。
ふりにしの reignと掛けて 見よと解く
神のしるしの rainbow
愛を失うと思う、その悲しみは辛い。
しかし愛は不滅。だから愛は永遠にかかる(love forever)。
だからこうして残り続ける(everlasting. eve=24)。
果てなく続く物語(never-ending)。