古典の改め:Make the Bible Available

 
 原初の古典の原典を読解し、大意の把握、更なる理解を開拓する。
 古典の象徴作品を通し、古今を通じ色あせない古歌の実質を知る。

 

竹取物語伊勢物語いろは歌源氏物語百人一首古今集万葉集古事記論語。これらを古い聖書読解の布石にする(宗教とは無関係)。

その他、大和物語土佐日記蜻蛉日記枕草子和泉式部日記紫式部日記紫式部集更級日記宇治拾遺物語平家物語徒然草奥の細道

 

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 管理人の古文・和歌のバックボーンは略歴を参照。

 貫之が古今仮名序で古の事と歌の心をも知れるのは一人二人と評したように、現状の理論的理解は肝心ほど筋違い。それなのに、自分では考えない多くの人達が、この社会は学問的に先進的で、古文など上の人達は一義的で見切っているかのように思っているからおかしくなる。貫之を超える実績あるならともかく。

 

 管理人の実績は略歴及びページフッター部の研究概要参照。
 今まで誰も筋を通せなかった竹取物語・伊勢物語の成立論、千年の歴代学者の誰一人読めなかった古今の配置論でそれを証明する。

 

 学問的というと、一般的には重箱の隅をつつく小賢しい話が連想されて敬遠されるように思われるが、貫之が「女もしてみむ」で女を装ったという作品文脈に全く基づかない奇天烈解釈は、古文と国語にとって重箱の隅というレベルの問題ではなく、文化根本の問題。
 そのような理論的認識自体の大きな過ち、目先の視野で見えない大局的な過ち、マクロの過ちに気づけない、そういうものと思い込む。それが国家的な学問・理論的理解のなさ。
 国家的お受験速成優秀思想で、はびこる付け焼刃的・皮相的な素人的理解。

 日本お受験教育界が好んで言う高度な思考力は、無駄に複雑化させた官僚的事務処理。だから複雑で高等なことをやってる感を見せるため、無駄に錯綜させて面倒にすることを高等と思い込んでいる。一貫してそういう法制度で、諸手続だろう。それが日本の基本優秀マインド。条件が複雑化しても、条件反射は本質的に思考ではない。

 頭が悪いと、たとえ自分が悪いことをしても、それが仕事と言われされ続けていれば悪いとも思えない。それは国家レベルで言える。
 良心と良識ある人々は、自分達の中に巣食う愚かさに謙虚に向き合う必要がある。
 これを西洋の良識ある人々は人類普遍の理想の実現のための、不断の戦いと言っている。何と戦うのかと言えば、自分達の無知と愚かさと、それらがもたらす先の見えない苦しみと。

 

 理解を深めることが人類の勝利。この理解とは、理について解るということだが、理とは、究極自分達の社会が合意してきた決め事ではない。しかしそう思うのが皮相的な理解。

 

 現状の学説は文献学、文学的解釈も文献学。解釈理論は観念分類論と品詞分類論。それに基づく定義は文脈無視の思い込みドグマ。解釈はそこに寄せるこじつけ。これが古文界の常の循環論法。光を影と定義する背理を疑問に思わない、それが末法。

 

 末法の法は人の法ではない。人を支配する法、つまり摂理。

 この点、教師や専門家も含め、ほぼ全ての日本の人は勘違いしており(それが末法=世も末)、中高教科書を並べて見る機会があり愕然としたが、法の支配は人の法律による支配ではない。それがまさに人の支配。そういう意味なら、原義のルール・オブ・ローは同義反復・循環論法で意味がない。だからそういう意味ではない。それを証明する(日本の法制度がこのローと無関係のものということは、近代法制史的にも論理的にも国際的にも不可能)。

 

 ハーバードロースクールを象徴するイオニア式神殿風ラングデルホール入口上部には、法の支配をいうものとして、以下のラテン語が刻み付けられている。

 NON SVB HOMINE SED SVB DEO ET LEG(=NOT SVB HUMAN BUT SVB GOD AND THE LAW=人の下でなく神とその法の下に)。

 

 SVBはSUBの古語、Main=主=GODと対をなす従属概念。これが古文王道の読解法。

 最後の「LAW」は人の法ではない。文脈・語順から明確に神の法。

 聖書を律法という由来からも、人の上にある不文律(LAW=LORD, ALL WE AWE. 独自)。西洋では摂理。東洋では天道(摂理の神)。

 こう見ないと全く文意が喪失するが、そう見ずに自分達本位で自分達の法の支配だと思い込む、それが無法。法(世の理)の無理解。つまり高次の法的理解がないと本質的に理にかなった理論を立論することは不可能。自分達本位の理論や理解となる。

 「法の下の平等」の法も本来人の法ではない(それを人目線にした日本的学問概念が平等原則)。だからその上位概念に全ての人は平等に創られたという天賦の人権理論がある。

 口先で神も畏れない、自分達で決めれば・決めてなければ何でもありにできると思う、それが無法。何の無理もない。

 

 自分達の決め事(理屈)は理ではない。理は摂理。その理解がない。世間のいう合理性は自分達の計算の合うこと。

 合理性とは何か考えたこともない。それは理(摂理)にかなうこと。事実に即しきること。それっぽい理由があればいいというのではない。人の思う合理性は、原理的に絶対ではない。それを謙虚に認められるのが合理性。

 自分達の理性に合うこと=合理性という解釈は、循環論法で誤り。自分達の社会が合理的と言いさえすれば合理的になる理屈で意味がない。しかしこれが現状の古文の解釈理論ではないか。法・理の理解が自分達都合であり続ける国の必然と思う。

 

 理にかなっているとは、事実に多角的に即して自然で、無理がないこと。かなうも意志につくもの。

 自然とはありのままで論理的に通ること。無理とは不自然で、その理解では説明が通りえないこと(これを無理筋という)。

 つまり理は自然である。物理も道理も人為的でなく超越的(高次の)法則である。それが摂理。何の無理もない。

 ありのままが正。ありのままでないことをありのままと思うことが、誤りや不正。人は万能でない。

 摂理天道を認めず、自分達本位で言葉を曲げ正当化する、それが餓鬼・修羅道。その稚拙で傲慢な認識が、言語認識と統治の根底を形成している。

 

 


 

 別格の古典は、常に古の神秘の詩句を継承してきたが、その神秘は最古の神話に基づく(myth; mystery; my-story)。

 

ふりにしの
レイン(reign)と掛けて
みよ(御世×見よ)と解く
神のしるし(sign)の
RAINBOW(Reincarnation, 即ち神代(かみよ)

arch of archē; God's Ark: 神の契約の箱。Arkは arch状で箱舟)


 その見えざる手を認めない人にとって神秘と奇跡は、宙に浮いて回る天体や人体のように原理は再現できなくとも理解されていると思う、まぐれの産物。

 

 いにしえのイニシエーション。

 なまえ(namae)で name でナーメ(独)。

「全地は同じ発音、同じ言葉であった」(創世記11:1

 The word of Lord is the world.
 Uni verseで、世界で一つになる詩篇。

 The God Lord Story で Glory. 神の栄光。

 神の歴史から神道の由来はこのゴッドロードという他ない。

 日本で「道ハ即ち神」という(明治元訳ヨハネ福音1:1)。

 

 神(LORD)は摂理で道理(法源)。
 それで法のことをロー(LAW=LORD+AWE; All we awe. 全て我々は神を畏れる。以上独自)といい聖書筆頭を律法という。神・天道を信じれば非道も許されると思うからワズらえる(過去形)。

 

 即物的で天道も畏れない人々の立てる法の国、それが法あって無きがごとしの無法国家。法律がない国家など存在しないので、ぬるい勘違いをしないように。それらの道は餓鬼・修羅道(支配層の言行・風体)。人の法(ロー)が宙に浮いてあるのではなく人の歩むべき道(ロード)が先。人の道は人道、上が天道。その道義も知らない・認めない自分達を万能のように思うお粗末な国が無法国家。

 

 八百万という万象を統べる万軍の主、それが古事記最初の天中主神。八(ヤ・ハ)は、ヤハウェ以来、創造神の頭文字(イニシャル・枕詞)とその象徴。

 それで八洲国(やしまの国。ヤス性を控えた呼称)、靖国となり、この音は英語で発音できないのでイエスとなる(イエス=ヤス=ヤー。ヤでないとナイン(Nein=No; 9)、ハでないとイエ・イイエ)。

 証拠に多角的に即すことが真実。

 The Almighty(全能の神・万軍の主>general; generality>major; majority)の特性は、ルーツ性(ロードオブロード・みちみちる性)とルール性(一見不可視の遍在性・摂理天道性)と大局的終局判断。局所的復活やマジックとは違う。

 

 八がつく日本の神々(各地の小さな八幡は八百万の一)と神話はその一作用。

 西洋は一神教、日本は多神教、ではなく、世界秩序ではなく世襲体制に沿うように、自国の最初の本の最初の主を全体主義的に無視してきたにすぎない。

 

 人の上にある世界秩序を英米法・コモンローの不文律で「法の支配」という。それも自分達で立てた法律による支配と思い込み、それがまさに自分達で決めれば・決まってなければ何でもありにできると思う王政(貴族武家)的無法。日本の法的認識はその時代から進歩していない(思想自体素地がない)。そもそも民主概念自体、黒船とGHQという外圧で体制側が建前上導入したに過ぎず、民衆が主体的に行動した成果などではない極東的民主主義。即ち、伝統体制側の恩恵に黙って大人しく感謝せよ主義(事大主義)。

 

 今、安易な虚飾を離れ、史実と良識に謙虚になれば、日本神話がひな型な訳などは勿論なく、心底では神即ち摂理・天道の実在など信じてないのに、一国体制の権威付け利用は不遜ですらある。

 よってヒトの名で強制的人間宣言。

 

 参拝一発で愛国になると思う発想が安易。天道が一国だけ特別扱いする道理がない。

 

 万軍の主(オールマイティー)は民を救い出す無名の神の代名詞。よってそういう神社神殿となり、至近の武道館が歌と全国ツアーの聖地となり、境内中心に八千代食堂売店と一体化した中東風茶店が最近出来た。和風一辺倒だったが、境内でこの店だけ唯一和風ではない。attic room(屋根裏部屋=天井の部屋)といい、atticは古典的とされるが、思うに antique(古くて小粋)を英語化した単語。

 日本は天皇を象徴としつつ、象徴の理論的理解は実はない。天子・近代法同様、訳もわからず輸入概念を利用しているだけ。本(もと)をただせば聖書の解釈理論に由来するとも知らない。枕詞に意味はないとするのと全く同じ構図。

 西洋が近代統治理論で抑制してきた王室・皇室神格化を未だに維持する(神器とは?)のは、一貫した停滞・抑圧基調の国家的運営実績にも照らし、全く見当違い。伝統だから守る・守り切る、ではない。伝統には悪しき伝統もあり、それは結果で示されている。

 

 

 たった一度の日本の世界レベルの飛躍は日本的論理による意思決定によるものではない。むしろ思想的に敵対し、日本統治層の全く現実を直視できない答案・草案に何度もダメ出し、不沈空母化してきたマクロ政策の成果による。そうではないか? 

 その冷戦構造が終わった途端、全く再現できなくなったことを自国の実力と思っていることがおかしい。さめない夢でも見ているのか。

 

 

 

 権力への戒めを認め、その栄光のユニークな一端をネイティブとして分かることこそ、先進的意味がある。

 日本の先進性は人文基礎理論(法学・哲学・経済学)にはなく、技術と思考様式は表裏一体。つまり実は日本の思ってきた先進性は重箱の隅的な先端性。理論的大枠は動かない。思考方向が一方向で、既存概念の延長(手作業・単純な人数確保)しか投資しないので、(産業・IT)革命的なブレイクスルーもない。革命は自明視された従来の正誤定義への反逆と表裏一体であるから。

 

 自分達本位の天動説的思考枠組みで一貫して解釈しようとしても、世界観が矮小なほど原理的に筋が通る道理はなく、西洋化の影響を免れた分野の思考様式はそこで止まっている。

 

 象徴的古語(百敷など)につき、通説や教科書・辞書が原理で正解と思う皮相的先入観を、古典を読む際は改める必要がある。

 

 西洋の理の究極は創造の摂理。極東的な理は体制都合の決め事。

 よって後者の合理性は官僚的・御用学者的合理性。よって悉く国際的な大局を見誤る。神は人が作った作り話で、神は人の形容と思い込み始める。よって人間宣言。

 見えざる手の認識に至るには低次の動機・世界観ではなく、高次の世界観に基づく多角的理解力が必要。正誤二分論は二次元、どちらとも言えないは三分論(表裏一体含む)。高次は多角的。具体的には地球人類万能という目線で考えないこと。


 下紐は下着の紐でなく紐帯・絆、見えないつながり。憑依された葵が下交えの褄と言う通説は、霊的理解を欠いて訳がわからないのにそういう信仰と即物的に決めつけたに過ぎない。衣は霊的に体。褄なら妻の衣(体)。これが高次の解釈で、したがえは下交えではない。

 枕詞は古の文脈に定義する最重要の語で、これに意味がないという説は理解できないことを正当化しているに過ぎない。究極の論理反転、背理ここに極まる。よって古の事と歌の心も知る者は一人二人と貫之はいう。現代の学説は貫之の理解を上回ったのか。ちなみに貫之の名は論語による(4-15「吾道一以貫之」。私の道は一つの原理で貫かれる)。孔子から弟子の曾子への言。つまり貫之は曾子(Zēngzǐ。音と象形と内実)。

 影の非実体性を解せず「月影」を月光と曲げる通説。しかし月影は月の陰影・面影・幻影(物理→心象)。高次の和歌は心象表現。解釈にはルールがある。
 読者達の感覚ではなく著者の総体多角的文脈に基づく。分解するほど文脈は見えなくなるそれが道理。語尾活用から文脈を定義するのが本末転倒の背理法。
 これが群盲象を評す。全体像の象徴の象に、摂理の意図(Elephant and Element)を認めない人々がめいめい(各々・瞑瞑)正しさを言う、それが末法。

 

 解釈できず、しるよし(知る由)を領るよし、うゐ(憂い)を有為とし、自分達の理解にひきつけた特殊概念を場当たりで当てつける無秩序な読解を改める。

 

 現状の学説に基づく教科書等の説は、文献学の先にある文学的表現の解釈になるとあまりにお粗末なのに、それを著者のせいにする。国を代表する古典を知的になめて自分達の方が上と思う。そんな国が西洋にあるだろうか。一面的推測の域を超える多角的説明は、第三者が家の中を描写する位無理。キーをいくら曲げて見せても解くことはできない。「けぢめ見せぬ」で分け隔てしない、「思ひ上がり」で気位が高い、「おぼろけ」で並大抵でない、女郎花にかかった「露」で恩恵と自在に膨らませ曲げ、大政翼賛で権威は全て礼賛(しかしそれは京の精神ではない)、批判をアクロバティックな曲芸のように曲げ、京のアンニュイなニュアンス(曖昧な皮肉・嘆き)や口語調を解せず、「本に・ほんに」を写本とし、「をかし」は趣深いの一つ覚え。

 

 自分達で決めれば何でもありにでき正しくできると思う、訳も分からず法の支配と称する無法の支配、古くは末法。「けぢめ見せぬ」の通説解はまさに末法。これが古文和歌読解理論の根本にある言語的病理、即ち背理。法の精神・人の上にある摂理を理解できず、天道も認められない。人は摂理を立てれない。認め、理解し改め、近づくことしかできない。それを認めるのが信仰に基づき誓う、普遍の法(摂理・天道)の支配。これは宗教とは最早関係ない。
 取りたい結論に沿うように言葉を曲げ、字義を無意味化して自在に定義し、あることをないと言い、ないことをあると言い、名目を変え見なかったことにし、ドグマ化して認知を病む。
 腐敗と死に体牛耳る無法の支配の根源を明らかにし、とこしえの世(いにしえ)のいしずえを堅くするため改める。
 

Birth(Verse) of Universe