古典の改め:Make the Bible Available

 
 原初の古典の原典を読解、大意を把握し、更なる理解を開拓する。
 古典の象徴作品を通し、古今を通じ色あせない古歌の実質を知る。

 

竹取物語伊勢物語いろは歌源氏物語百人一首古今集万葉集古事記論語。これらを古い聖書読解の布石にする(宗教とは無関係)。

その他、大和物語土佐日記蜻蛉日記枕草子和泉式部日記紫式部日記紫式部集更級日記宇治拾遺物語平家物語徒然草奥の細道

 

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 管理人の古文・和歌のバックボーンは略歴を参照。
 研究成果はページフッター部の研究概要参照。
 基幹作品の根本成立理論を、従来の感覚論ではなく悉く筋を通し説明できたと思う。
 伊勢物語の成立論ほど根本的ではないが、枕草子写本統一理論も有益と思う(身内本の能因本は初期草稿、三巻本(定家本)の大本は著者校訂本、三巻本のみにつく一本は著者補遺集)。従来の説は、原文の多角的文脈を無視し、自分達の文献・世界観・観念分類論に沿って話を展開し、そうした自分達本位の読解で筋を通せないとすぐ他人の付加と考え始め、原理的に分類以上に通して説明しえないのだから、私の理論を参考にしても損はないと思う。
 何の明示もない他人の付加は普通ではない。それは異常で普通ではない。そうではないのか。学説がそれが普通と言っているのは、この国では改竄が普通だからか。私はこの国の筋を通す気が全くない、暗記主義の読解力不足を正当化する作品破壊と言葉の定義を(つまり言を)左右する立論が耐え難い。初心者相手の添削に馴れ、注釈に本文以上の価値があると勘違いしてきたのではないか。それで自分達より上はないと思い、本文に大した意味はない前提で論じ始める。

 

 日本の古文界は、今となっては自分達で編み出した当然の正解のように思っている近代法の近代論理―日本の支配層の独善を根底から揺るがし打破した黒船や墨塗教科書のような論理―を免れ、自分達の思うままに文言を自在に定義し議論してきた。

 私の立論は、そうした自分達が中心で世界が回っていると思う傲慢な天動説から、多角的論理で天道に付随して回る地動説への転換を提示するようなもので、これを漫然と貴族皇族本位で解説してきた人々が受け入れることは、延々続く傲慢で幼稚な内弁慶の封建家父長的政治認識のように無理だろう。
 勅撰だから業平認定は正しく、そうした安易な全体主義的見立てを当然視し続け、諸記録とも伊勢物語の文言とも最初から整合しないが、素性の知れない伊勢物語が勅撰を上回る理論的根本となることを感覚的に認められず(よって出典を常に勅撰とする)、その稚拙な見立てを糊塗する人定を重ね(伊勢物語で登場する帝と実名人物は古今世代より前の六歌仙時代にもかかわらず、無名の歌に古今後の世代の人定を何の根拠もなく注入し)、それをもって伊勢物語の成立を後とし、勅撰同様無秩序な寄せ集めとみなし、素直な文言から離れ、自分達の安易な世界観の見立てを正当化するために、言を左右にしてアクロバティックな理屈をひねり出すことを、高等な学問的努力と勘違いしている。
 そういう人達の認識枠組み、それは社会的宗教的信条、イデオロギーとも言える(統計改竄、昨今の袴田事件での公権力による証拠捏造認定参照)。
 みなすというロジックには強い根拠が必要であるところ、人は全知全能でないために、見立てた前提が崩れるとその事実認定は遡及的に覆ることを前提にする留保付きの論理だが、自分達をおカミと思う狭い社会ではその認識が乏しく、事実認識が稚拙で、議論を避ける文化の国なのに自分達の論理則や経験則やを不当に絶対視しているから、そういう思考の展開、つまりどんなに無理でも過ちを認めることができない。自分達の世界線に都合が良いように捉える。

 

 近代法の論理の核心は、日本の発想ではない天賦の人権理論が象徴するように、無知による迷信を改め、摂理に近づくことにある。それは人を全知全能と思う頭の悪さからの脱却であって、それは思考が即物化していくことではない(それこそ一面的な物の見方)。
 しかしこの国は結論だけの受け売りで、西洋近代化・先進性の根本的スピリットが解ってない。
 よって米国の経済思想防波堤・原子力不沈空母と化していた冷戦構造の壁が崩れたその直後、イザナギ以来とされる一貫した強力な好景気ははじけ飛び、未だその水準を超えられていないのに、その経済力を自分達の実力と勘違いしてる。これが兵卒一流・将校三流とされる国のマクロの認識力。
 個々の兵士が全体の方針を立てた訳ではない。そして日本の上層は、一億総活躍、延々底堅く持ち直し続けている、トレンド大転換の最後のチャンス、という既視感ある大本営の空虚な号令が続いている。最後のチャンスと言い続ける認識の積み重ねが現状。つくづく試験主義の国は国の統治の失敗に学べない国。自分達は悪くない、自分達をとりまく情況が悪かったと思い続ける。これをまさに愚かというのだろう。

 

 

 貫之が古今仮名序で古の事と歌の心をも知れるのは一人二人と評したように、現状の理論的理解は肝心ほど筋違い。それなのに自分で考えない多くの人達が、この社会は学問的に先進的で、古文など一義的で見切っているかのように思っているからおかしくなる。貫之を超える実績あるならともかく。

 
 今まで誰も筋を通せなかった竹取物語・伊勢物語の成立論、歴代学者の誰一人読めなかった古今の配置論でそれを証明する。

 

 学問的というと、一般的に重箱の隅をつつく観念論が連想されるように思われるが、貫之が「女もしてみむ」として「女を装った」という作品に一切根拠のない支配的通説の解釈は(まだ私以外の異論は見たことがない)、古文と国語の論理的言語認識にとって重箱の隅レベルの問題ではなく、古文の象徴で、国語根本の問題。
 そのような前提認識自体の大きな過ち、マクロの過ちを認めず、次々生じる不都合はどこ吹く風で、それを絶対無理でも退ける苦心を大人の努力と思い、最後まであきらめるなという幼稚な脳筋発想で自分達本位論を展開。
 これが国家的な論理のぬるさ。

 貫之が「女もしてみむ」とは、貫之が手掛けた古今の男女比、貫之の理知的とされる性格、全て総合すると、「女もしてみよう」と文字について啓蒙した以外ない。貫之は女ではないから女の私とする見立て自体、自明の事実に反するのでまず疑わなければならないし、貫之が手掛けた905年のかな和歌集・古今で女性は20人中2人だったのに、土佐当時の935年で公式に認められた女流文学作品もなく突如それが女文字だったとする根拠などない。

 

 いつまでたっても答え漁りのお受験速成優秀思想ではびこる付け焼刃的・素人的理解。

 日本教育界が言う高度な思考力は、無駄に複雑化させた官僚的事務処理。条件が複雑化しても、条件反射は本質、思考ではない。
 自分達で錯綜させた無用なひねりを高等と思い込む。そういう発想の人達がマクロの制度設計をしている(上の頭が理論的に空で丸投げして偉そうにだけしている)ことが、国の非生産性とビジョンのなさの一因。
 

 現状の学説は文献学、文学的解釈も文献学。解釈理論は存在していない。
 品詞分解は木を細切れにし森を決める理論。遺伝子まで解るレベルならともかく品詞分解レベルでそれはない(これはそこまで空想めいた比喩ではない)。
 それに基づく定義は文脈無視のドグマ。解釈はそこに寄せるこじつけ。

 解釈とは、語義から離れ、何となくずらした意味をアクロバティックに当てつけることではない。これが実際に行われている無法な曲解。

 

 末法の法は人の法ではない。人を支配する法つまり摂理。

 この点、専門家も含めほぼ全ての日本の人は勘違いしており(それが末法)、法の支配は人の法律による支配ではない。それがまさに人の支配。
 法の支配は、成文法重視の大陸法系ではなく、不文法重視の英米法系(コモンロー)由来概念。そもそも法の理解が違う。単に法律に依拠するのが法治主義、より高次の不文律的な拘束力(立法権力側の愚かな傲慢を許さない意味)を認めるのが法の支配。親方日の丸系はそこから理解できない。自分達の知的に傲慢な過ちが修正されることを前提にするものであるから。

 

 ハーバードロースクールを象徴するイオニア式神殿風ラングデルホール入口上部には、法の支配をいうものとして、以下のラテン語が刻み付けられている。

 NON SVB HOMINE SED SVB DEO ET LEG(=NOT SVB HUMAN BUT SVB GOD AND THE LAW=人の下でなく神とその法の下に)。

 

 これが法の源。
 多くの日本の人は、法の支配を人の立てた法による支配と思っていると思われるだが、それは少なくともこのハーバードの理解に反している、
 日本の鎌倉時代の御成敗式目一条が神社の修理から始まるのはその世俗的理解。なお、これをもって旧世代の迷信とみなすのは全く表現の仕方が迷信的であっても、根本的な考え方(人の傲慢への戒め)がおかしいのではない。逆に、日本は神の文脈で先進的と思うのは天照がいるから日本は女性を立てる先進国と思うくらい違う。それは渡来系の古事記の著者(太安万)の先進思想。
 国が違うので関係ないと思うのは、米国・連合国由来の法理を、自分達で導き出したのではないにせよ、日本の法体系の最上位に掲げ先進国として誇って享受している以上、単なる無知である。

 

 SVBはSUBの古語、Main=主、文脈でGODと対をなす従属概念。これが古文の読解法。

 最後の「LAW」は文脈・語順から明確に神の法(LORD; ALL WE AWE)、西洋では摂理。東洋では天道。

 こう見ないと全く文意が喪失するが、そう見ずに自分達の法の支配と思い込む、それが無法。

 

 「法の下の平等」の法も本来は人の法ではない。だからその上位概念に、全ての人は平等に創られた天賦の人権理論がある。

 口先で神も畏れない、自分達で決めれば何でもありにできると思う、それが無法。

 

 自分達の決め事(理屈)は理ではない。理は摂理。その理解がない。

 自分達の理性に合うことが合理性という理解は、自分達が合理的と言いさえすれば合理的になる循環論法で意味がない。
 しかしこれが現状の古文の解釈理論ではないか。

 

 理にかなうことは、事実に多角的に即し自然で無理がないこと。

 自然とはありのままであること。無理とは不自然で説明が通らないこと。

 理は自然で、世界(観)。世界の理解がない人のいう合理性と理性は、理系的なそろばん勘定以上のものでない。
 物理も道理も人が立てたのではない自然法則。それを包摂したのが摂理。

 
 摂理とは天道であり、道(ロード)は神(LORD)の言い換えで、その軌跡の象徴であり、それに従う人の道、人道こそ摂理にかなう人類普遍の法、法体系最上位の概念がルールオブロー(法の支配)である。自分達で決めた法は守れとかいう子供レベルの話ではない。それは統治の次元の話でなく被支配の次元。それに法を主体的に決めてもないだろう。したがって人の法には悪法もある。それを改めさせる法理が法の支配。人は万能でない。

 ありのままが正。ありのままでないことをありのままと思うことが不正で誤り。

 摂理天道を認めず、自分達本位で言葉を曲げ正当化する、それが餓鬼・修羅道。その稚拙で傲慢な認識が、言語認識と統治の根底を形成している。

 

 


 

 別格の古典は、常に古の神秘の詩句を継承してきたが、その神秘は最古の神話に基づく(myth; mystery; my-story)。

 

ふりにしの
レイン(reign)と掛けて
みよ(御世×見よ)と解く
神のしるし(sign)の
RAINBOW(Reincarnation, 即ち神代(かみよ)

arch of archē; God's Ark: 神の契約の箱。Arkは arch状で箱舟)


 その見えざる手を認めない人にとって神秘と奇跡は、宙に浮いて回る天体や人体のように原理は再現できなくとも理解されていると思う、まぐれの産物。

 

 いにしえのイニシエーション。

 なまえ(namae)で name でナーメ(独)。

「全地は同じ発音、同じ言葉であった」(創世記11:1

 The word of Lord is the world.
 Uni verseで、世界で一つになる詩篇。

 The God Lord Story で Glory. 神の栄光。

 神の歴史から神道の由来はこのゴッドロードという他ない。

 日本で「道ハ即ち神」という(明治元訳ヨハネ福音1:1)。

 

 神(LORD)は摂理で道理(法源)。
 それで法のことをロー(LAW=LORD+AWE; All we awe. 全て我々は神を畏れる。以上独自)といい聖書筆頭を律法という。神・天道を信じれば非道も許されると思うからワズらえる(過去形)。

 

 即物的で天道も畏れない人々の立てる法の国、それが法あって無きがごとしの無法国家。法律がない国家など存在しないので、ぬるい勘違いをしないように。それらの道は餓鬼・修羅道(支配層の言行・風体)。人の法(ロー)が宙に浮いてあるのではなく人の歩むべき道(ロード)が先。人の道は人道、上が天道。その道義も知らない・認めない自分達を万能のように思うお粗末な国が無法国家。

 

 八百万という万象を統べる万軍の主、それが古事記最初の天中主神。八(ヤ・ハ)は、ヤハウェ以来、創造神の頭文字(イニシャル・枕詞)とその象徴。

 それで八洲国(やしまの国。ヤス性を控えた呼称)、靖国となり、この音は英語で発音できないのでイエスとなる(イエス=ヤス=ヤー。ヤでないとナイン(Nein=No; 9)、ハでないとイエ・イイエ)。

 証拠に多角的に即すことが真実。

 The Almighty(全能の神・万軍の主>general; generality>major; majority)の特性は、ルーツ性(ロードオブロード・みちみちる性)とルール性(一見不可視の遍在性・摂理天道性)と大局的終局判断。局所的復活やマジックとは違う。

 

 八がつく日本の神々(各地の小さな八幡は八百万の一)と神話はその一作用。

 西洋は一神教、日本は多神教、ではなく、世界秩序ではなく世襲体制に沿うように、自国の最初の本の最初の主を全体主義的に無視してきたにすぎない。

 

 人の上にある世界秩序を英米法・コモンローの不文律で「法の支配」という。それも自分達で立てた法律による支配と思い込み、それがまさに自分達で決めれば・決まってなければ何でもありにできると思う王政(貴族武家)的無法。日本の法的認識はその時代から進歩していない(思想自体素地がない)。そもそも民主概念自体、黒船とGHQという外圧で体制側が建前上導入したに過ぎず、民衆が主体的に行動した成果などではない極東的民主主義。即ち、伝統体制側の恩恵に黙って大人しく感謝せよ主義(事大主義)。

 

 今、安易な虚飾を離れ、史実と良識に謙虚になれば、日本神話がひな型な訳などは勿論なく、心底では神即ち摂理・天道の実在など信じてないのに、一国体制の権威付け利用は不遜ですらある。

 よってヒトの名で強制的人間宣言。

 

 参拝一発で愛国になると思う発想が安易。天道が一国だけ特別扱いする道理がない。

 

 万軍の主(オールマイティー)は民を救い出す無名の神の代名詞。よってそういう神社神殿となり、至近の武道館が歌と全国ツアーの聖地となり、境内中心に八千代食堂売店と一体化した中東風茶店が最近出来た。和風一辺倒だったが、境内でこの店だけ唯一和風ではない。attic room(屋根裏部屋=天井の部屋)といい、atticは古典的とされるが、思うに antique(古くて小粋)を英語化した単語。

 日本は天皇を象徴としつつ、象徴の理論的理解は実はない。天子・近代法同様、訳もわからず輸入概念を利用しているだけ。本(もと)をただせば聖書の解釈理論に由来するとも知らない。枕詞に意味はないとするのと全く同じ構図。

 西洋が近代統治理論で抑制してきた王室・皇室神格化を未だに維持する(神器とは?)のは、一貫した停滞・抑圧基調の国家的運営実績にも照らし、全く見当違い。伝統だから守る・守り切る、ではない。伝統には悪しき伝統もあり、それは結果で示されている。

 

 権力への戒めを認め、その栄光のユニークな一端をネイティブとして分かることこそ、先進的意味がある。

 日本の先進性は人文基礎理論(法学・哲学・経済学)にはなく、技術と思考様式は表裏一体。つまり実は日本の思ってきた先進性は重箱の隅的な先端性。理論的大枠は動かない。思考方向が一方向で、既存概念の延長(手作業・単純な人数確保)しか投資しないので、(産業・IT)革命的なブレイクスルーもない。革命は自明視された従来の正誤定義への反逆と表裏一体であるから。

 

 自分達本位の天動説的思考枠組みで一貫して解釈しようとしても、世界観が矮小なほど原理的に筋が通る道理はなく、西洋化の影響を免れた分野の思考様式はそこで止まっている。

 

 象徴的古語(百敷など)につき、通説や教科書・辞書が原理で正解と思う皮相的先入観を、古典を読む際は改める必要がある。

 

 西洋の理の究極は創造の摂理。極東的な理は体制都合の決め事。

 よって後者の合理性は官僚的・御用学者的合理性。よって悉く国際的な大局を見誤る。神は人が作った作り話で、神は人の形容と思い込み始める。よって人間宣言。

 見えざる手の認識に至るには低次の動機・世界観ではなく、高次の世界観に基づく多角的理解力が必要。正誤二分論は二次元、どちらとも言えないは三分論(表裏一体含む)。高次は多角的。具体的には地球人類万能という目線で考えないこと。


 下紐は下着の紐でなく紐帯・絆、見えないつながり。憑依された葵が下交えの褄と言う通説は、霊的理解を欠いて訳がわからないのにそういう信仰と即物的に決めつけたに過ぎない。衣は霊的に体。褄なら妻の衣(体)。これが高次の解釈で、したがえは下交えではない。

 枕詞は古の文脈に定義する最重要の語で、これに意味がないという説は理解できないことを正当化しているに過ぎない。究極の論理反転、背理ここに極まる。よって古の事と歌の心も知る者は一人二人と貫之はいう。現代の学説は貫之の理解を上回ったのか。ちなみに貫之の名は論語による(4-15「吾道一以貫之」。私の道は一つの原理で貫かれる)。孔子から弟子の曾子への言。つまり貫之は曾子(Zēngzǐ。音と象形と内実)。

 影の非実体性を解せず「月影」を月光と曲げる通説。しかし月影は月の陰影・面影・幻影(物理→心象)。高次の和歌は心象表現。解釈にはルールがある。
 読者達の感覚ではなく著者の総体多角的文脈に基づく。分解するほど文脈は見えなくなるそれが道理。語尾活用から文脈を定義するのが本末転倒の背理法。
 これが群盲象を評す。全体像の象徴の象に、摂理の意図(Elephant and Element)を認めない人々がめいめい(各々・瞑瞑)正しさを言う、それが末法。

 

 解釈できず、しるよし(知る由)を領るよし、うゐ(憂い)を有為とし、自分達の理解にひきつけた特殊概念を場当たりで当てつける無秩序な読解を改める。

 

 現状の学説に基づく教科書等の説は、文献学の先にある文学的表現の解釈になるとあまりにお粗末なのに、それを著者のせいにする。国を代表する古典を知的になめて自分達の方が上と思う。そんな国が西洋にあるだろうか。一面的推測の域を超える多角的説明は、第三者が家の中を描写する位無理。キーをいくら曲げて見せても解くことはできない。「けぢめ見せぬ」で分け隔てしない、「思ひ上がり」で気位が高い、「おぼろけ」で並大抵でない、女郎花にかかった「露」で恩恵と自在に膨らませ曲げ、大政翼賛で権威は全て礼賛(しかしそれは京の精神ではない)、批判をアクロバティックな曲芸のように曲げ、京のアンニュイなニュアンス(曖昧な皮肉・嘆き)や口語調を解せず、「本に・ほんに」を写本とし、「をかし」は趣深いの一つ覚え。

 

 自分達で決めれば何でもありにでき正しくできると思う、訳も分からず法の支配と称する無法の支配、古くは末法。「けぢめ見せぬ」の通説解はまさに末法。これが古文和歌読解理論の根本にある言語的病理、即ち背理。法の精神・人の上にある摂理を理解できず、天道も認められない。人は摂理を立てれない。認め、理解し改め、近づくことしかできない。それを認めるのが信仰に基づき誓う、普遍の法(摂理・天道)の支配。これは宗教とは最早関係ない。
 取りたい結論に沿うように言葉を曲げ、字義を無意味化して自在に定義し、あることをないと言い、ないことをあると言い、名目を変え見なかったことにし、ドグマ化して認知を病む。
 腐敗と死に体牛耳る無法の支配の根源を明らかにし、とこしえの世(いにしえ)のいしずえを堅くするため改める。
 

Birth(Verse) of Universe