章題 読み方 |
原文冒頭 | |
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概要※ | ||
覚一 11-18 正節12-1 |
重衡被斬 | |
1 |
大地震 だいじしん |
平家滅び果てて西国も静まりぬ |
京に大地震(翌月改元され文治地震と呼ばれる)。 | ||
2 |
紺掻之沙汰 こんかきのさた 異:平大納言被流 |
同じき八月二十二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父 |
今度は本物の源義朝(頼朝の父)の首ですと言って、文覚が頼朝に頭蓋骨を持ってきた。 | ||
2-2 |
平大納言被流 へいだいなごんのながされ |
同じき九月二十三日、平家の余党の都にあるを |
平時忠は能登に流刑。 | ||
3 |
土佐房被斬/土佐房誅 とさぼう(の)きられ |
さるほどに、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人 |
土佐坊昌俊は頼朝の命令で義経を殺そうとしたが、逆に処刑された。 | ||
4 |
判官都落 はんがんのみやこおち |
ここに足立新三郎といふ雑色は |
頼朝は範頼に義経討伐を命じたが範頼は辞退。義経は都落ち。奥州へ向かう。 |
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4-2 |
吉田大納言沙汰 よしだだいなごんのさた 異:判官都落 |
さるほどに鎌倉殿、日本国の惣追捕使を賜はつて |
文治の勅許で頼朝は守護地頭を置く。つまり東国の治安維持と収税を引き受けた。 | ||
5 |
六代 ろくだい 正節:六代乞請 |
北条四郎時政謀に、「平家の子孫といはん人 |
文治元年 (1185年) 清盛の嫡子重盛の嫡子維盛の嫡子六代(12歳・平高清)が見つかった。文覚の活躍で六代は危機一髪で助命。 「若公ゆるさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候」とて、とり出して奉る。 |
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5-2 |
泊瀬六代 はせろくだい 異:六代 |
さるほどに文覚つと出で来たり |
文治2年 (1186年) 六代は長谷寺で家族と再会。 | ||
5-3 | ※2:正節で欠く | さるほどに、北条四郎、六代午前具し |
6 |
六代被斬/六代誅 ろくだい(の)きられ |
さるほどに文覚つと出で来たり |
建久3年 (1192年) 後白河院没。正治元年 (1199年) 土御門天皇即位時の陰謀嫌疑で、文覚は隠岐国へ流罪。六代(平高清)は結局死罪。屋代本などはこうして終わる。「それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ」 | ||
6-1 | (六代熊野参詣) | さるほどに六代御前はやうやう十四五にも |
6-2 | (湯浅城軍)※2 | 小松殿の御子丹後侍従忠房は |
6-3 | (法皇崩御)※2 | さるほどに、建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して |
6-4 | (知忠の死)※2 | 平家の子息は去んぬる文治元年の冬の頃 |
6-5 | (盛嗣の死)※2 | 平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国へ落ち行きて |
6-6 | (六代の死) | その頃の主上は御遊をむねとせさせ給ひて |
※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。
※2:正節で欠く