平家物語 巻第十二 目次と概要

巻第十一 平家物語
巻第十二
灌頂巻

 
『平家物語』巻第十二の目次と原文冒頭及び概要。一般的な覚一本系の章題に読み方を付し、リンクで原文各章に通じさせた。

 

→巻第十二・通し全文

 

  章題
読み方
原文冒頭
概要※
覚一
11-18
正節12-1
重衡被斬  
1 大地震
だいじしん
平家滅び果てて西国も静まりぬ
京に大地震(翌月改元され文治地震と呼ばれる)。
2 紺掻之沙汰
こんかきのさた
異:平大納言被流
同じき八月二十二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父
今度は本物の源義朝(頼朝の父)の首ですと言って、文覚が頼朝に頭蓋骨を持ってきた。
2-2 平大納言被流
へいだいなごんのながされ
同じき九月二十三日、平家の余党の都にあるを
平時忠は能登に流刑。

3

土佐房被斬/土佐房誅
とさぼう(の)きられ
さるほどに、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人
土佐坊昌俊は頼朝の命令で義経を殺そうとしたが、逆に処刑された。
4 判官都落
はんがんのみやこおち
ここに足立新三郎といふ雑色は

頼朝は範頼に義経討伐を命じたが範頼は辞退。義経は都落ち。奥州へ向かう。
「大物の浦より船に乗って下られけるが、折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける。吉野法師にせめられて、奈良へおつ。奈良法師に攻められて、又都へ帰り入り、北国にかかって、終に奥へぞ下られける」
以後の義経の記述は、覚一本平家物語にはない。

4-2 吉田大納言沙汰
よしだだいなごんのさた
異:判官都落
さるほどに鎌倉殿、日本国の惣追捕使を賜はつて
文治の勅許で頼朝は守護地頭を置く。つまり東国の治安維持と収税を引き受けた。
5 六代
ろくだい
正節:六代乞請
北条四郎時政謀に、「平家の子孫といはん人
文治元年 (1185年) 清盛の嫡子重盛の嫡子維盛の嫡子六代(12歳・平高清)が見つかった。文覚の活躍で六代は危機一髪で助命。
「若公ゆるさせ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候」とて、とり出して奉る。
5-2 泊瀬六代
はせろくだい
異:六代
さるほどに文覚つと出で来たり
文治2年 (1186年) 六代は長谷寺で家族と再会。
5-3 ※2:正節で欠く さるほどに、北条四郎、六代午前具し
6 六代被斬/六代誅
ろくだい(の)きられ
さるほどに文覚つと出で来たり
建久3年 (1192年) 後白河院没。正治元年 (1199年) 土御門天皇即位時の陰謀嫌疑で、文覚は隠岐国へ流罪。六代(平高清)は結局死罪。屋代本などはこうして終わる。「それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ」
 6-1 (六代熊野参詣) さるほどに六代御前はやうやう十四五にも
 6-2 (湯浅城軍)※2 小松殿の御子丹後侍従忠房
 6-3 (法皇崩御)※2 さるほどに、建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して
 6-4 (知忠の死)※2 平家の子息は去んぬる文治元年の冬の頃
 6-5 (盛嗣の死)※2 平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国へ落ち行きて
 6-6 (六代の死) その頃の主上は御遊をむねとせさせ給ひて

 ※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。
 ※2:正節で欠く