平家物語 巻第八 目次と概要

巻第七 平家物語
巻第八
巻第九

 
『平家物語』巻第八の目次と原文冒頭及び概要。一般的な覚一本系の章題に読み方を付し、リンクで原文各章に通じさせた。

 

→巻第八・通し全文

 

  章題
読み方
原文冒頭
概要※
1 山門御幸
さんもんごこう
寿永二年七月二十四日の夜半ばかり
比叡山に逃げていた後白河法皇を義仲が守護し入京。平家追討の院宣。
「同廿八日に法皇都へ還御なる。木曾五万余騎にて守護し奉る」
2 名虎/那都羅
なとら
異:山門御幸
同じき八月十日、木曾は左馬頭になつて

平家は太宰府へ落ちる。後鳥羽天皇が4歳で即位。

「同八月十日、院の殿上にて除目おこなはる。木曾は左馬頭になって、越後国を給わる」

2-2 異:名虎 八月二十日、都には法皇の宣命にて
2-3 異:小手巻 平家は筑紫にてこの由を伝へ聞き給ひて、
3 緒環/小手巻
おだまき
異:宇佐行幸
(さる程に、筑紫には内裏つくるべきよし沙汰ありしかども)平家は筑紫に都を定めて、内裏造らるべしと、公卿詮議ありしかども、都もいまだ定まらず。
豊後の緒方維義に平家追討の命が下る。
3-2 異:緒環 豊後国は、刑部卿三位頼輔卿の国なりけり。
4 太宰府落
だざいふおち
さるほどに、平家は筑紫に都を定め、内裏つくらるべしと、公卿詮議ありしかども、維義が謀反と聞いて大きに恐れ騒がれけり。
緒方に攻められた平家は太宰府から撤退し、讃岐国の屋島へ行く。「平家は、緒方三郎維義が三万余騎の勢にて既に寄すと聞えしかば、とる物もとりあへず太宰府をこそおち給へ」
5 征夷将軍院宣
せいいしょうぐんのいんせん
さるほどに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝
頼朝が征夷大将軍の院宣を受けた(寿永二年十月宣旨は、徴税権など頼朝の東国支配を認めたもの。頼朝の征夷大将軍就任は1183年ではなく、1192年)。
6 猫間
ねこま
泰定都へ上り院参して、御坪の内に畏まつて
猫間中納言藤原光隆を義仲は「猫殿」と呼び、「猫の食べ残しですな」と無作法に接待。
「猫殿は小食にあはしけるや。きこゆる猫おろしし給ひたり。」
7 水島合戦/水嶋合戦
みずしまかっせん
さるほどに、平家、讃岐の八島へ渡り給ひて後
備中国の海戦水島の戦いで知盛・教経(『玉葉』によれば大将は重衡)の平家軍が義仲軍に勝った。
8 瀬尾最期/瀬尾最後
せのおさいご
木曾左馬頭この由を聞いて、安からぬ事なりとて
瀬尾兼康は、倶利伽羅の戦い以後、源氏の下で働いていたが裏切った。結局福隆寺縄手の戦いで殺された。
9 室山
むろやま
異:室山合戦
さるほどに、備中国万寿の荘にて勢揃へして
播磨国室山の戦い平知盛・重衡軍は源行家軍に勝利。
「平家は室山、水島二ヶ度のいくさに勝ってこそ、いよいよ勢はつきにけれ」
10 鼓判官
つづみほうがん
異:法住寺合戦
およそ京中には源氏の勢満ち満ちたり
養和の飢饉の影響もあり、義仲は京の治安維持に失敗。木曾勢は暴徒化。
「凡そ京中には源氏みちみちて(中略)人の倉をうちあけて物をとり、持ってとほる物をうばひとり、衣装をはぎとる」
後白河法皇が敵対したため、義仲は後白河の御所、法住寺を攻める。
10-2 法住寺合戦
ほうじゅうじかっせん
たとへば都の守護してあらんずるものの
法住寺合戦に勝ち、義仲は後鳥羽天皇や後白河法皇を幽閉。
「主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならうど思へども、童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白にならう」

 ※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。