清少納言の由来~在中将(伊勢・大和)

題名の由来 枕草子
清少納言の由来
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 清少納言の由来は諸説あり、清は清原で問題ないとして、少納言の由来が不明とされるが、清少納言は在五中将・在中・平中の流れを受けた適当なペンネームと解する(在中将は伊勢物語の在五中将を受けた大和物語での略称。この時代歌を嗜む者で古今で圧倒的な詞書のの業平認定、在五を知らない者はない)・平中(平貞文=親が中将)を受けた、あだ名(自虐)的呼称と解する。上中下は伊勢由来、大中小は竹取由来。

 

 上中下は伊勢・土佐以来のふざけた無礼講の象徴で(身分は通常上下というところ中は中将。伊勢の渚の院に掛け土佐の潮海のほとり。この中は本来入らないことを土佐は上中下を出したすぐ後で示している。「ありとある上下童まで」)。(なお、土佐で上中下は仲麻呂の歌にも用いられるが、これは伊勢82段渚の院の文脈を仲麻呂に還元適用したものと解する。それは土佐の文脈でも、古今の仲麻呂の上中下の詞書が例外的に左注扱いになっていることからも言える。他方で古今での伊勢の歌・渚の院の歌の詞書は左に記されてはいない。伊勢の歌の異様に突出した詞書を左注とする学者もいるが、左には書かれていない。他方で仲麻呂の突出した詞書は左に書かれており(つまり原典ではない編集者の意図を示す)、左右の違いは万葉以来原文レベルで区別されている)。

 

 この在中将および平中以外、名字一字略称の目立った先例類例はなく、あっても紫の藤(藤式部)で、いずれも文人歌人で強く伊勢と関連している。

 名字一字の略称は元々蔑称かつ仇名的呼称なので(大元の在五(中将)自体があだなる業平をけぢめ見せぬ心と全力で非難する文脈。伊勢63段)、平中はともかく、清少納言はおそらく彼女自身が考えたもの。他人が少納言とつける理由がなく、平中のようなあだ名なら在中平中以外に根拠がない。彼女と彼女の身内は少納言と関係ないとされるが、在中の次の平中(平貞文=親が中将)の時点でペンネーム化し本人との関連が希薄化しており、それを推し進めたもの。

 

 在中将を自明の前提にしたのが清少納言で、在五の物語ではなく『伊勢物語』で伊勢をの海人(伊勢の無名の昔男)としたのが紫式部。

 源氏の絵合の該当部分は以下の通り。

 

 「在五中将の名をばえ朽たさじ」とのたまはせて、宮〔通説は藤壺と解するが前伊勢斎宮〕、「みるめこそうらふりぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をや沈めむ」かやうの女言にて乱りがはしく争ふに」

  

 「伊勢物語」と明示したのはこの源氏の絵合が史上初。現状この絵合の激しい論争は実に軽く流されているが、それを文言通りに解すると在五否定・中将敗北と向き合わざるをえなくなり、そうする古今の業平認定と整合性が揺らぐからである。しかし古今の業平認定を配置で明確に否定しているが貫之で(文屋小町敏行のみ先頭連続:秋下・恋二・物名、業平を敏行で崩す恋三。。古今最初の厚い詞書は8の文屋。9の貫之=下に立たむこと堅く。業平初出は53・63で、伊勢63段の在五に掛ける)、よって伊勢物語の前に貫之も出している。

 

 つまり枕草子末尾「とぞ本に」と源氏末尾「とぞ本にはべめる」のように、清少納言の皮肉めいて粋った風の表現に対し、紫が厚く論証=反発する構図(京女の戦い)。ちなみにこの末尾を共に、と写本に書いてあるという当時の一般的な表現と解する通説は、原文を最後で突如破断させるナンセンス、解釈内容も文脈完全無視でそれ自体ナンセンスの極みで100%誤り。彼女達二人のこの国歴史上の特別性を完全に無視して貶めている。男社会に都合の良い骨抜き陳腐化がはびこるのは、男性学者が多いからではないだろうか。彼女達が立てたのは男一般ではなく実力と教養(歌の理解・古の機知が)ある男。そしてそれは帝や上達部(権力だけの馬鹿)を容易に上から目線で否定・批評する精神をもたらした(竹取以来、伊勢・大和・蜻蛉・枕草紙・源氏)。そしてそれは日本の学界で通説を形成しうるような男社会秩序と、それが好きな女性には多分全く美しくない。これが物語の根幹の精神というのは、どんなに男を馬鹿にする文脈で終えても認めないので無視したり平然と曲解する。竹取伊勢に言及する絵合は無視できないが、明示的論点は無視し自分達の解釈を正解と教え込む強迫的態度に出る。その判断基準は論理と道理・理由づけの当否ではなく、肩書と多数決と勅撰のようなパワー(権威)という論理による。この点、古文の注釈書に肩書無記載が多いのは良く捉えれば伝統かもしれないし、権威ある学者が基本を無視軽視してきたとも言える。その当然の帰結として、解釈が強度に近視眼的で場当たり的で、基本的な読解力が全体にない。ミクロの文法理論しかないから、男が女を装っているとか言い出してもおかしいと思えない。文脈を全く無視して周辺の十数文字だけで思い込む。それが近視眼的解釈。

 春は曙、こそおかしけれが省略されているという説。枕詞という概念を知らないのだろうか。

 持て渡るともていくが明確に対になって共に炭の文脈であるのに持っていくの意味を排斥する通説、灰がちになってわろしというのに、みっともないとか、冬らしくないとか、冬の早朝の寒さのような張りつめた気持ちがゆるむのが良くないとか思い思いにいう。掛詞は知らないのだろうか。

 基本の理解がないと応用はできない。応用できないなら基本を理解していない。基本の理解の程度は実際の応用の仕方でわかる。古典の肝心は和歌で詩歌。この理解がなくそれなりの地位を占める原典たる古典になることはない。