平家物語 巻第三 目次と概要

巻第二 平家物語
巻第三
巻第四

 
『平家物語』巻第三の目次と原文冒頭及び概要。一般的な覚一本系の章題に読み方を付し、リンクで原文各章に通じさせた。

 

→巻第三・通し全文

 

  章題
読み方
原文冒頭
概要※
1 赦文
ゆるしぶみ
治承二年正月一日、院の御所には拝礼行はれて、四日の日朝覲の行幸ありけり。
治承2年 (1178年) 中宮徳子が懐妊。安産祈願のため藤原成経平康頼を恩赦。ただし俊寛は赦免されない。
「鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師、赦免」とばかり書かれて、俊寛といふ文字はなし。
1-2 足摺
あしずり
異:赦文
さるほどに鬼界が島の流人ども、召し帰さるべき事定められて、入道相国の赦文書いて下されけり。
鬼界が島から本土に帰る舟にとりつく俊寛。
「ともづなといておし出せば、僧都綱に取りつき、腰になり脇になり、たけの立つまではひかれて出づ」
2 御産
ごさん
さるほどに、二人の人々は、鬼界が島を出でて、肥前国鹿瀬の庄にぞ着き給ふ。
徳子は安徳天皇を生む。
3 公卿揃
くぎょうぞろえ
異:付 公卿揃
御乳には、前右大将宗盛卿の北の方と定められたりしが
誕生祝いに公卿がそろって清盛宅に挨拶。
4 大塔建立
だいとうこんりゅう
御修法の結願に勧賞ども行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべし。
平家が厳島神社を信仰しはじめたいわれ。
5 頼豪
らいごう
白河院御在位の時、京極の大殿の御娘、后に参らせ給ひけり。
白河天皇の皇子が生まれたとき、僧頼豪が怨霊になって皇子が死んだ挿話。
6 少将都帰
しょうしょう(の)みやこがえり
さるほどに今年も暮れぬ、治承も三年になりにけり。
治承3年 (1179年) 成経と康頼は都へ帰った。
7 有王
ありおう
さるほどに、鬼界が三人流されたりし流人
俊寛の召使有王が、俊寛に会いに鬼界が島へいく。
7-2 僧都死去
そうずしきょ
異:有王
僧都、「ここにて何事も言はばやとは思へども、いざ我が家へ」
俊寛はやせこけていたが、さらに断食をして死んだ。
「其庵のうちにて、遂にをはり給ひぬ。年三十七とぞ聞えし」
8 /辻風
つじかぜ
異:付 辻風
さるほどに、同じき五月十二日の午の刻ばかり
都の竜巻で多くの家が倒れた(『方丈記』や『明月記』によればこれは治承4年のこと)。
9 医師問答
いしもんどう
異:小松殿死去
小松の大臣、かやうの事どもを伝へ聞き給ひて

清盛の長男、重盛が病死。
「八月一日、臨終正念に住して、遂に失せ給ひぬ。御年四十三」

本サイト注:清盛の長子重盛は一貫して横暴な清盛を諫め、心を痛める人格者として描かれており、その一環としてこの死も描かれており、これで清盛を止める者がいなくなった大きな意味合いがある。

10 無文
むもん
すべてこの大臣は、天性不思議の人にて
重盛が病死する前に、長男の維盛に葬式用の無文の太刀を譲った。
11 燈炉之沙汰
とうろうのさた
異:燈籠
またこの大臣は(滅罪生善の志深うおはしければ)当来の浮沈を歎き
重盛は東山に四十八間の阿弥陀堂を建立、燈籠の大臣と呼ばれた。
12 金渡
かねわたし
(こがねわたし)
またこの大臣は滅罪生善の志深うおはしければ「我が朝には
重盛は宋の育王山に三千両を寄進したことがあった。
13 法印問答
ほういんもんどう
異:法印問答 付 地震
入道相国、小松殿には後れ給ひぬ。よろづ心細くや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。
清盛が後白河院の悪行を静憲法印に語る。法印は人臣の礼からはずれないようにと忠告。
14 大臣流罪
だいじんるざい
法印御所に帰り参つて、この由奏聞せられければ
清盛のクーデター。関白基房と太政大臣藤原師長を流罪(治承三年の政変)。
同十六日、入道相国、此日ごろ思ひ立ち給へる事なれば、関白殿を始め奉って、太政大臣以下の公卿殿上人、四十三人が官職をとどめて、追つ籠めらる。
15 行隆之沙汰
ゆきたかのさた
異:法皇被流 付 江大夫判官遠成自害・行隆卿補本位事
また、前関白松殿の侍に、江大夫判官遠成といふ者あり。
藤原行隆は父親が清盛と親しく、とりたてられた。
15-1 異:江大夫判官遠成自害
ごうたいふのはんがんとおなりのじがい
また、前関白松殿の侍に、江大夫判官遠成といふ者あり。
15-2 異:行隆卿補本位事
ゆきたかきょうほんいにほすこと
その頃前左少弁行隆と申ししは、故中山中納言顕時卿の長男なり。
16 法皇被流
ほうおうながされ
同じき十一月二十日、法住寺殿には、軍兵四面をうち囲む
後白河法皇は洛南の鳥羽殿に幽閉された。
17 城南之離宮
せいなんのりきゅう
「百行の中には、孝行をもつて先とす。
高倉天皇〔平徳子の夫〕は出家を希望する。

 ※概要はWikipedia#平家物語の内容を参照。