平家物語 巻第七 目次と概要

巻第六 平家物語
巻第七
巻第八

 
『平家物語』巻第七の目次と原文冒頭及び概要。一般的な覚一本系の章題に読み方を付し、リンクで原文各章に通じさせた。

 

→巻第七・通し全文

 

  章題
読み方
原文冒頭
概要※
1 清水冠者
しみずのかんじゃ
寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾の冠者義仲
寿永2年 (1183年) 源義仲は長男、清水冠者源義高を頼朝に人質に差し出し、頼朝と和睦。
1-2 北国下向
ほっこくげこう
異:清水冠者
さるほどに、木曾、東山北陸両道を従へて、
重盛の長男維盛ら6人を大将に、義仲討伐軍が出発。
2 竹生島詣
ちくぶしまもうで
大将軍維盛、通盛は進み給へども
清盛の弟平経盛(忠盛の三男)の長男、平経正は琵琶湖の竹生島に参詣し、琵琶をひいて明神を感動させた。
3 火打合戦
ひうちがっせん
木曾義仲、身柄は信濃にありながら
越前国火打城の戦いで、堀を枯らして平維盛軍は勝利。
4 願書
がんしょ
木曾宣ひけるは、「平家は定めて大勢なれば
義仲は砥波山の八幡神社に平家討伐の願書を奉納。
5 倶梨迦羅落
くりからおとし
さるほどに源平両方陣を合はす
倶利伽羅峠の戦い。夜に峠で義仲の軍勢はどっと鬨の声をあげる。平家はあわてて逃げ、「倶利伽羅が谷へわれ先にぞとおとしける。まっさきにすすんだる者が見えねば、「此谷の底に道のあるにこそ」とて、親おとせば子もおとし、兄おとせば弟もつづく。主おとせば家子郎等もおとしけり」となる。
6 篠原合戦
しのはらかっせん
(木曾殿やがて)そこにて諸社へ神領を寄せられける
加賀国篠原の戦いでも平家は敗北。
7 実盛/真盛
さねもり
異:実盛最期/実盛最後
また武蔵国の住人、長井の斎藤別当実盛
平家軍のしんがり、斎藤実盛が討ち取られた。年は70を過ぎていたが、年寄りに見られないよう、白髪を黒く染めていた。
8 玄肪/還亡
げんぼう
上総守忠清、飛騨守景家は
奈良時代の玄昉僧正の挿話。彼は藤原広嗣の怨霊に殺された。
9 木曾山門牒状
きそさんもんちょうじょう
異:木曾牒状幷返牒
きそちょうじょうならびにへんじょう
木曾、越前の国府に着いて
義仲から比叡山へ、平家追討に協力してほしいと牒状を送る。
9-2 返牒
へんちょう
案のごとく山門の大衆、この状を披見して
比叡山は義仲に味方する。
10 平家山門連署
へいけさんもんへのれんじょ
異:連署
平家はこれを知らずして
平家からも比叡山に協力の要請をしたが、断られた。
11 主上都落
しゅじょうのみやこおち
同じき七月十四日、肥後守貞能、鎮西の謀叛平らげて
平家は都落ちを計画。後白河法皇は逐電。6歳の安徳天皇が都落ち。母の建礼門院(平徳子・清盛娘)と三種の神器も同行。
「主上は今年六歳、いまだいとけなうましませば、なに心もなう召されけり。国母建礼門院御同輿に参らせ給ふ」
12 維盛都落
これもりのみやこおち
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣
重盛の長男維盛は富士川と倶利伽羅で大敗して帰った。平家で唯一、妻子を京に残して都落ち。
12-2 聖主臨幸
せいしゅりんこう
異:維盛都落
或いは聖主臨幸の地なり
御所の警備役だった畠山重能ら3人は、解放され東国へ帰った。
12-3 異:忠度都落 去んぬる治承四年七月
13 忠度都落
ただのりのみやこおち
薩摩守忠度は、いづくよりか帰られたりけん
清盛の弟(忠盛の六男)薩摩守忠度は、文武両道の武士。都落ちするとき、藤原俊成(百人一首編者の藤原定家の父で和歌の権威)に歌を託した。
14 経正都落
つねまさのみやこおち
修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正
清盛の弟経盛(忠盛の三男)の長男経正は、名器の琵琶「青山」を仁和寺に返して都落ち。
14-2 青山之沙汰
せいざんのさた
異:経正都落
この経正十七の年、宇佐の勅使を承つて下られけるに
琵琶「青山」は唐伝来で、平安時代初めから朝廷の宝で、仁和寺に預けられていた。
15 一門都落
いちもんのみやこおち
異:池殿都落
いけどののみやこおち
池大納言頼盛卿も、池殿に火かけて出でられけるが
頼朝はかつて池禅尼の懇願で救命されたことから、彼女の子である平頼盛(忠盛の五男)は、頼朝に助命されるはずと判断し、都に留まった。
16 福原落
ふくはらおち
平家は小松三位中将維盛の卿のほかは、
平家一門は福原で一泊後、福原を焼いて船で退去。「寿永二年七月廿五日に平家都を落ちはてぬ」
16-2 異:福原落 福原の旧都に着いて、大臣殿しかるべき侍ども、

 ※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。