平家物語 巻第一 目次と概要

全文 平家物語
巻第一
巻第二

 
『平家物語』巻第一の目次と原文冒頭及び概要。一般的な覚一本系の章題に読み方を付し、リンクで原文各章に通じさせた。

 

→巻第一・通し全文

 

  章題
読み方
原文冒頭
概要※
1 祇園精舎
ぎおんしょうじゃ
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
この有名な導入の後、桓武天皇にさかのぼる平清盛の先祖を紹介。
2 殿上闇討
てんじょうのやみうち
しかるに忠盛、いまだ備前守たりし時
長承元年 (1132年) 清盛の父平忠盛は昇殿を許された。殿上人たちがねたみ、闇打をたくらんだため、忠盛は短刀をちらつかせながら昇殿した。
「其刀を召し出して叡覧あれば、うへは鞘巻の黒くぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける」
3
すずき
その子どもはみな諸衛佐になる~そもそも平家かやうに繁昌することは
仁平3年 (1153年) 忠盛没。長男平清盛が36歳で家督を継ぐ。(保元の乱平治の乱を経て)仁安2年 (1167年) 清盛は太政大臣となる。
「かくて忠盛、刑部卿になって、仁平三年正月十五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男たるによって其跡をつぐ」
4 禿髪/禿童
かぶろ
かくて清盛公、仁安三年十一月十一日
仁安3年 (1168年) 清盛出家。清盛の義弟時忠は言う。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし。」
5 吾身栄花/我身栄花
わがみのえいが
我が身の栄華を極むるのみならず
平家の荘園は日本の半分を超えた。
6 祗王/妓王
ぎおう
入道相国、天下を掌のうちににぎり給ひし間
清盛は白拍子の祇王を寵愛。ある日清盛は寵愛相手を仏御前に変えた。祇王は隠居し尼になった。
「祇王廿一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひきむずび、念仏してこそゐたりけれ」
7 二代后
にだいのきさき
昔より今に至るまで、源平両氏朝家に召し使はれて
久安6年 (1150年) 藤原多子は11歳で近衛天皇の后になった。後白河天皇時代には実家にいたが、永暦元年 (1160年) 21歳で二条天皇の皇后としても召し出された。
8 額打論
がくうちろん
さるほどに、永万元年の春の頃より
永万元年 (1165年) 二条天皇没。その葬儀の額打の順番(実に不毛などうでもいい見栄張。額内論=空論)で延暦寺(京都・滋賀)と興福寺(奈良)が争う。
9 清水炎上
きよみずえんじょう
異:清水寺炎上
山門の大衆、狼藉をいたさば手向ひすべき所に
延暦寺は興福寺の末寺の清水寺に放火。
「山門の大衆、すずろなる清水寺に押し寄せて、仏閣僧坊一宇も残さず焼き払ふ」
10 東宮立
とうぐうだち
さるほどに、その年は諒闇なりければ
仁安3年 (1168年) 平時子の妹平滋子と後白河上皇の子、高倉天皇が即位。
「此君の位につかせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄花とぞ見えし」
(祗王/妓王)
ぎおう
6の章段移動。どちらも栄花のエピソートに続ける。
11 殿下乗合/殿下騎合
てんがののりあい
さるほどに、嘉応元年七月十六日
嘉応元年 (1169年) 後白河上皇出家。嘉応2年、重盛の次男平資盛の車が摂政藤原基房の車とすれちがった。資盛は下馬の礼を無視し、乱闘となる。後日清盛が報復を命令し(『愚管抄』によれば、この事件の報復を命じたのは、清盛ではなく重盛)、基房の一行を暴行(殿下乗合事件)。
12 鹿谷
ししのたに
これによつて、主上御元服の御定めは
承安元年 (1171年) 清盛の娘、平徳子が高倉天皇に入内。安元3年 (1177年) 平重盛と宗盛が左大将・右大将になった。先をこされた大納言藤原成親は、東山の鹿谷で義弟の西光法師(俗名藤原師光)らと、平家討伐をたくらむ(鹿ケ谷の陰謀)。
「俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻しける」
13 俊寛沙汰 鵜川軍
しゅんかんのさた うかわのいくさ
異:鵜川軍
そもそもこの俊寛僧都と申すは
「鹿谷の陰謀」が表に出るまでの経過が、次巻初頭まで続く。安元3年 (1177年) 西光の子藤原師経は、加賀守の代理として比叡山延暦寺の末寺鵜川(石川県小松市鵡川町の隣、遊泉寺町の現在は廃絶した涌泉寺)に火をかけた。
14 願立
がんだて
神輿をば、客人の宮へ入れ奉る ~ 去んじ嘉保二年三月二日、美濃守、源義綱朝臣
比叡山は(系列の末寺に火を放った)師経の処罰を要求。
15 御輿振
みこしぶり
さるほどに、山門の大衆、国司加賀守師高を流罪
比叡山の僧兵は御輿をかついで内裏に強訴し、内裏を守る平重盛軍と戦闘(嘉応の強訴
16 内裏炎上/大裡炎上
だいりえんじょう
夕べに及んで、蔵人左少弁兼光に仰せて
樋口富小路から火が出て大内裏が炎上(安元の大火)。

 ※概要はWikipedia#平家物語の内容から引用。